「このクッキーを食べたい」と思うことは、どのようにして可能になっているのでしょうか。
urbeさん、コメントありがとうございました。
黄色の四角をみて、「これは黄色だ」とどうして言えるのか、と問うてみました。私もurbeさんのいう認知科学/機能主義にたってまず考える必要があると思います。問題は、その立場で何処まで言えるかです。
今仮に心身問題に関する唯物論を採用して、パソコン画面の黄色の四角から、光が私の目に届いて、それが視神経を刺激し、その刺激が脳のある部分に届いて、そこに一定のシナプスの状態ないし過程が成立したとします。そこの状態ないし過程と私が見ている黄色の感覚(クオリア)が同一であったとします。つまり、黄色いの画面から黄色の感覚が発生することは、神経生物学的な因果過程によって説明できたとします。
私が問題にしたいこと、またセラーズが問題にしたことは、その後のプロセスです。つまり、黄色の四角の知覚から、「これは黄色だ」という命題知がどのようにして成立するのか、ということです。もちろん、唯物論者は、この過程もまた神経生物学的な因果過程によって成立する、と考えるでしょう。
私も、そのような因果過程が成立している可能性は高いと思います。しかし、それを仮に認めるとしても、それは、私が問題にしている問いの答えではありません。なぜなら、そのような因果過程によって、我々の志向的な心の働きが支配されているとしても、我々の志向的な心の働きは、それ特有の合理的な思考のプロセスをもつはずです。もし心の変化が、合理的な思考のプロセスによって支配されていないならば、我々はおそらく自分の心の変化を理解することができなくなるとおもいます。
したがって、黄色の知覚から、「これは黄色だ」という命題知を形成するときには、脳の過程は神経生物学的な法則に支配されているとしても、心の中では有意味な操作がおこなわれていると考えます。問題は、心の中で我々がおこなっているそのプロセスです。
これで、よいでしょうか。これで問題設定としては、クリアになったと思うのですが、まだあいまいな点があるでしょうか。
さて、上のクッキーを見て、「これはクッキーだ」という認識の成立を説明するのは、「これは黄色だ」の場合と同様の問題を抱えています。ここでは、仮にそれが説明できたとします。(なぜなら、そうしないと、私の話は欲望の認識にまでなかなか、たどり着けそうにないからです。)
上のクッキーをみて「クッキーだ」とわかった後で(同時でもよいのですが)、「このクッキーを食べたい」と思うとしましょう。(実際、すでにクッキーは私のお腹の中です。)この欲望の認識は、どのようにして成立するのでしょうか。
空腹感を説明するのは、満腹感を説明するよりも難しいようです。(詳しくは、http://www.tmin.ac.jp/medical/12/feeding1.htmlをご覧ください。)唯物論者が考えるように、クッキーを見たときに生じる脳内のシナプスの状態ないし過程として<クッキーの知覚像>が生じ、さらに脳の別の部位におけるシナプスの状態ないし過程として<食べたいという欲望>が生じたとします。
しかし、<クッキーの知覚像>は、まだ言語化されていないクオリアであり、<食べたいという欲望>もまだ言語化されていないクオリアであるとします。黄色についての以前の質問は、<クッキーのクオリア>から「これはクッキーだ」という命題知がどのように生まれるのか、という質問に似ています。
ここで問いたいのは、<食べたいという欲望>のクオリアから、「このクッキーを食べたい」という欲望についての命題知がどのようにして生じるのか、ということです。
「これは黄色だ」に比べると、問題がかなり複雑になりました。私がここで注意したいのは、単に複雑になったということでなく、感覚という認知状態の言語化の問題と、欲望という欲求状態の言語化との違いです。
ここに、どのような本質的な違いがあるか、それは次回に説明しましょう。
それはともあれ、ご批判、ご質問を御願いします。