「このキャンディーを食べたいですか」と問われて、
私が「食べたい」と答えるとしましょう。
このとき、私はどのようにして、そう答えたのでしょうか。
urbeさん、コメントご質問ありがとうございました。urbeさんが、機能主義というときに考えていたのは、心を実現するのは、人間の脳だけでなく、もし同じ機能をもつものであれば、コンピュータでもよいということだったのだと思います。「多重実現可能性」を踏まえての発言だったのですね。私もそれに賛成です。さて、そのときも、私の考えていた問題は、urbeさんが予想されるとおり影響を受けません。
私の問題は、クッキーの知覚表象から、「これはクッキーだ」という命題知がどのようにして生じるのか、ということです。クッキーの知覚表象から、「これはクッキーだ」という言語表象(?)がどのようにして生じるのか、ということです。そして、ここまでで言いたかったのは、セラーズが「所与の神話」として批判しているように、<そのような知覚表象には、言語は含まれていないので、その知覚表象から直接に「これはクッキーだ」という命題知が導出されるのではない>ということです。
そして、この議論を、「欲望」の認識にも拡張したいのです。
「このキャンディを食べたいですか」と問われて、私が「食べたい」と答えるとしましょう。(例によって、このキャンディは既に私の胃の中にあります。)このとき、私はどのようにして、この返答を得たのでしょうか。私は、心の中で、自分自身に「私は、このキャンディを食べたいのだろうか」と問いかけたのでしょうか。仮にそうだとしましょう。そして、私が私の欲望を内観で観察して、「そうだ、私はこれを食べたい」と答えるのだとしましょう。仮にそうだとしても、その欲望は、言語的に分節化されておらず、したがってそれから「私は、これを食べたい」という命題知(このとき、これは、私の欲望を記述した命題知となる)が直接に得られることはありえないはずです。
「これは黄色だ」や「これはクッキーだ」の場合には、これまでに教わった黄色とされる色の集合、これまで教わったクッキーだとされる物の集合、それらと目の前の対象との類似性の認知によって(あるいはまた、これまで教わった黄色以外の色の集合、これまで教わったクッキー以外の物の集合との差異性の認知によって)、目の前の対象について「これは黄色だ」とか「これはクッキーだ」という命題知が得られる(正当化される)のだとしよう。(このような説明には、まだ重要な見落としがありそうだとおもうのですが、今は、こう考えておきます。)
これと同様にして、「このクッキーを食べたい」とか「このキャンディーを食べたい」の場合には、これまでに教わった「食べたい」という欲望(こころの状態)の集合との類似性の認知によって(あるいは、「食べたくない」という心の状態の集合との差異性の認知によって)「現在の私の心の状態は、食べたいという状態である」という命題知が得られる(正当化される)のだろうか。
黄色やクッキーならば、誰かが私に指示して教えることが可能であろう。しかし、食べたいという心の状態の場合には、人は私の心の状態を知ることもできないし、指示することもできない。「生きたい」という欲望の場合にも同様であり、人が私の心の状態を指示して、それが「生きたい」という欲望なのだ、と教えることはできない。
これは、ウィトゲンシュタインがよく例に挙げる、「歯が痛い」とおなじ例かもしれません。では、ウィトゲンシュタインは、「歯が痛い」という言葉を、我々がどのように習得すると説明していたのでしょうか。今すぐに、この答えを思い出せないので、これを次回に考えてみます。
前回予告した、感覚という認知状態の言語化と欲望という欲求状態の言語化の違いは、上記の区別とは別のことです。上記の区別は、外的感覚についての言語化と、内的感覚についての言語化の違いです。
つまり、前回の予告は、次々回に実現することになるでしょう。