問題と話題

 一昨日の続きです。
 では、<問題を共有する>ことと<話題を共有する>ことは、どこが違うのでしょうか。

<問題を共有する>とは、ある疑問文に対する答えを見つけることが重要であるという認識を共有することです。もう少し細かく言うと、(問題が、現実認識と意図の矛盾として構成されているとすると)問題を構成している現実認識と意図を共有し、その矛盾を解決することが重要であるという認識を共有していることです。その問題の解決に共同して取り組もうとするかどうかは、問題の共有とは、論理的には別のことがらです。しかし、実際には、共同して取り組むことが不可能でない限り、共同して取り組もうとすることを妨げるものはないでしょう。(共同して取り組むことが不可能な問題があるだろうか? これは後で考えましょう。)

では、<話題を共有する>とは、どういうことでしょうか。話題を共有するとは、ある対象や事柄に関する興味、関心を共有するということでしょう。ところで、パンダに関心をもつ動物学者と国際政治学者は、同じ対象に関心を持っていても、彼らが関心を共有しているとは言えないでしょう。動物学者は、動物としてのパンダに関心をもっており、国政政治学者は、中国の外交政策に利用されている贈り物としてパンダに関心を持っているからです。つまり、同じ対象が関心の対象になっているというだけでは、話題を共有していると言うには不十分です。話題を共有するとは、同じ事柄に対する関心を共有することです。そして、事柄は命題で表現されるので、話題を共有するとは、ある命題に対する関心を共有することです。ある事柄(ないし命題)に関して、二人がそれぞれ言いたいことや、知りたいことをもっているとき、彼らは話題を共有していると言えるでしょう。

 とりあえず、議論と会話の区別を確認しておきましょう。

<議論と会話の対比>
議論は、記録して、再開できる。
そのときに、参加者は変化しても、議論は一つである。
議論は問題中心である。
問題が変われば、それは別の議論である。
問題の変化もまた、別の問題になりうるが、その別の問題を扱うのは、別の議論である。

会話は、記録して、再開できない。
会話は、参加者が変化すると、別の会話である。
会話は、参加者中心である。
話題が変わっても、会話は継続する。
話題の変化もまた、話題となりうる。そのときも、会話は継続する。