社会的な死?

      山口市の瑠璃光寺に咲いていた花です。
      花はつねに、儚さの象徴です。

 ここでは、人生論の第一問題「死に対してどのような態度をとるべきか」について考えます。

 「生きたい」という意図と、「人間は死ぬ」という事実の矛盾(?)から、「死に対してどのような態度をとるべきか」という問いが生まれのだと思われます。少なくとも、このどちらか、あるいは両方が成立しないとき、上の問いは生じないでしょう。

 さて、「生きたい」という欲望には、二種類あることがわかりました。一つは心的ないし身体的な状態の記述としての「私は生きたい」です。もう一つは、意図表明としての「私は生きたい」という発話です。後者は社会的な欲望だといえそうです。
 「私は生きたい」が事実の記述であるのなら、「人間は死ぬ」と矛盾しません。これらは、事実として、あるいは事実の記述としては、矛盾していないからです。
 「私は生きたい」が意図であるときに、「人間は死ぬ」と矛盾する(?)のです。(この矛盾については、いずれ、もう少し詳しく説明することにします。)
 もし「私は生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死でなく社会的な死、自然的な事実ではなく社会的な事実なのではないでしょうか? では、社会的な死とは何でしょうか?

主観的な写真と主観的な人生観について

 私には思い入れがあるのですが、この写真の意図は主観的なものでおそらくうまく伝達できていないだろうと思います。

 ここでは、「人生観」について考えてみたいと思います。「人生観」と「哲学的人生論」とは、はっきりと区別する必要があります。ここでは、ある個人の、人生についての私的な主観的な考えを「人生観」と呼ぶことにします。

 個人の人生観が、「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」とか「私は私の生き方としては・・・がよい」というように彼の生き方だけに関わるときには、この発言には内的に矛盾したところはなさそうです。(この場合にも、その内容が他者に危害を与えるときには、それは他者からの批判を受けてしかるべきであり、これについての議論が必要になります。)

 しかし、
  「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
というように、その人だけに関わるのでなく、ひと一般の人生についての考え方を述べているときには、この発言は矛盾しているのではないでしょうか。もしこのように普遍性を主張するとすれば、それは人生観と言うよりも人生論です。もし人生観でありながら、普遍性を主張しようとすると、次のようになるかもしれません。
  「私は、人生の意味は …… であると考えるが、しかし、他の人が別様に
   考えるのならば、それを尊重する」
というような主張になるでしょう。
 
 しかし、このような発言は、矛盾していないでしょうか。人生観に限らず、より一般的にいうと次のような主張になります。
  「私はpを信じる。しかし他の人が¬pを信じるのならば、私はそれを尊
   重する」
これは、矛盾していないでしょうか。これを次に考えて見ます。