06認識論的個人主義は宝くじを買う

前回の批判に対して、認識論的個人主義者は次のように反論するかもしれません。

<私は『あなたが存在している』と想定しています。そして、全ての表象が私の表象である限り、それが私の表象にすぎず、私の想定に過ぎない可能性はあります。そして、これが、私の想定に過ぎないとすれば、私が今、あなたに話し掛けていることも、実は私の勝手な想定であり、この話しかけは失敗しているということになります。
ちょうどドアを叩きながら、「どなたかいませんか」と質問しているような場合と同じです。もし人がいれば、答えてくれるし、もしいなければ答えは返ってきませんから、この発話は、誰に対する質問でもないことになります。しかし、それでもよいのです。それでも、私は、返答がないことによって、誰もいないという情報を得ることができるからです。
これと同じで、私は、今このようにあなたに反論していますが、そのあなたが私の表象に過ぎない可能性があるとしても、もしあなたから返答が返ってくれば、それによってとりあえず、私はあなたが存在しているという想定を継続する合理的な根拠を得たことになります。もちろんそれが私の錯覚で、実はあなたがいないことがいずれわかるかもしれませんが、しかし、それはわれわれの認識の限界として、引き受けるしかないことだと、私は考えています。ここには、矛盾はありません。
われわれが宝くじを買うときに、「当てよう」と思って買うのですが、しかし当たらない確率が高い、つまりおそらく当たらないだろう思っています。当てようとすることと、当たらないだろうと思うことは、この場合に矛盾していないでしょう。それと同じことです。>

さて、この反論にどのように答えたものでしょうか。