07 指さし

次の3-1は3-2に先行していないという批判に対する、トマセロの反論はあいまいであった。
3-1:自分は意図をもつ存在である。
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」

トマセロの反論は、この時期の赤ちゃんはまだ言語をもたないので、自分の意図の理解といってもあいまいであり、自分の心的状態の概念化や言語化のレベルの話をそのまま適用することは出来ない、ということであろう。

しかし、トマセロの説明は、やはり他者の類推説の一種であるように思える。
それならば、そこでは、次の二つが前提になっているはずである。
①自分の心の状態の理解と、他者の心の状態の理解は、区別される。つまり、自他の区別が前提される。
②自分の心の状態の理解が、他者の心の状態の理解に先行する。

②に対する批判は前回見たとおりである。私は①に対する批判を行いたい。

ただし、トマセロに対する批判を進める前に、もう少しトマセロの理論を確認して起きたい。
(しかし、正確に紹介しようとすると、引用ばかりになり、そうすると著作権を侵害することになりそうで困ります。)

トマセロによると、
■9ヶ月ごろに、共同注意が出来るようになる。
■11ヶ月から12ヶ月にかけて、指差しを行うようになる。
この指差しは、赤ちゃんと他人と対象からなる三項関係的で「宣言的な身振り」(p. 119)である。
子供がどのようにして指差しを学ぶのかは、まだ分かっていないそうだ。しかし、「儀式化」と「模倣学習」という二つの可能性が考えられるそうだ。
(トマセロによれば、チンパンジーの身振りと同様の身振りは、以前から行われている。それは、他人へ向かったり、対象へむかったりするが、それらは「二項関係的」(p.118)であるという。それは、「模倣」によるのではなく、「儀式化」によるものであり、「信号(事柄の実行を実現させるための手続き)」であって「記号(symbol)(経験を共有するための慣習)」ではない(Cf. p.118)そうである。)

■他者を通してみた自分“me”を知る
赤ちゃんが共同注意ができ、他者の意図を認知するようになると、「赤ちゃんは自分のかかわりあっている相手が、意図をもつ主体であり、その人は赤ちゃん自身を知覚し、赤ちゃんに対して何らかの意図を向けているのだということが分かっているのである」122 つまり、他者から自己がどのように理解されているかを理解するようになる。トマセロは、このような自己は、ウィリアム・ジェームズとジョージ・ハーバート・ミードの、“me”に当たるという(Cf. p. 122)。
「自分について他者がどういう感情を抱いているかについてのこのような新しい理解が、はにかみ、自意識、そして自尊感情の発達の可能性を開く(Harter, 1983)。」(p.122)
「一歳の誕生日の頃にはじめて、赤ちゃんが他者の前や鏡の前ではにかみや気恥ずかしさの兆候を見せる(Lewis et al., 1989)。」(p.122)