ドレスデンの桜です。
ドレスデンから戻ってから、風邪を引いたり、新学期の授業の準備とかで、upが遅れてしまいました。
ドレスデンの研究会はとても刺激になりました。宿題もできましたが。
その後おとづれた、イエナとニュルンベルクの話も、写真と共にすこしづつ紹介します。
さて、前回つぎのようにのべました。
トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えています。
1:自分と他者は似ている(と理解している?)(生まれたときから)。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である (2-1,2-2は、生後7,8ヶ月)
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。(3-1,3-2は生後8ヶ月くらいから)
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意(生後9ヶ月~15か月)
<3-1から3-2へのシミュレーションによる移行>への批判としては、次のような対案を考えています。
<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>このようにいえるのでしょうか。
例えば、自分の意図の理解は、自分が何かしようとすることを、母親が、「ミルクがほしいのね」「オムツを替えてほしいのね」「あのおもちゃがほしいのね」「抱っこしてほしいのね」などと、赤ちゃんの意図を解釈して、その解釈された意図を自分の意図として理解するようになる、ということがあるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようにして得られる自分の意図の理解よりも、「ミルクを飲もうね」とか「オムとを変えようね」などという母親の意図の理解の方が早いかもしれません。赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて、理解するようになるのかもしれません。
前回は、<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>というシミュレーション理論への対案として、<赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて理解するようになる>とのべました。
同様の対案を対象への注意についても行ないたいのです。
ところで、トマセロの上述の発展段階の説明は、他者を有生の存在であると認識することと、意図をもつ存在であると認識することの区別を大変重視しています(cf. p.98)。それにもとづいて、<2-1と2-2>の段階と<3-1と3-2>の段階をはっきりと区別するのです。
この区別が重要なのはわかりますが、しかし、それはこのようにはっきりと時期的な段階の区別として設定できるのでしょうか。それに若干疑問があります。
というのは、それは、共同注意についての、他の知見と矛盾するように思われるからです。
大藪秦氏は共同注意についていくつかの分類を提案していますが、そのうちの一つは「構成形態からの分類」というもので、そこで5つの発達段階に分けています(参照、大藪秦『共同注意』川島書店)。
①前共同注意:「情動の通定的現象」「新生児模倣」(p. 23)
②対面的共同注意:生後2か月から。「乳児が他者と視線をしっかり合わせる状態」(p. 23)
③支持的共同注意:生後6か月から。「相手の視線を追跡して同じ方向を見たり、そこに存在する対象物を注目したりする」(p. 25)
④意図共有的共同注意:9か月~12か月「自分、大人、そして両者が注意を共有する第3の対象物からなる3項関係をより緊密なものにし、参照的な相互作用に関わりだす」(p. 27)
⑤シンボル共有的共同注意:「生後15か月から18か月になると、多くの子供が言語的シンボルを使用し始める」「子供-対象物-他者という共同注意構造は、子供-対象物/シンボル-他者という共同注意構造に変形される」(p. 28)
この②の対面的共同注意は、「視線が『結ばれる』体験」(p. 24)ともよばれており、ベイトソンのいう相互覚知に当たるものです。ブルーナーはこれを「2者の視線が出会う単純な共同注意」とよび、共同注意の原型的形態と見なしているそうです(p.23)。つまり、ここにすでに他者との共同注意と言う形で、自分と他者の注意の理解が曖昧な形であれ、登場しています。他者の注意の理解と他者の意図の理解を明確に分けないとすれば、トマセロの議論への反論となるでしょう。(トマセロは、この反論を回避するためには、注意の理解と意図の理解を明確に分けなければなりません。)
大藪氏の上の発達段階論から、我々は注意についても、<赤ちゃんは、他者との親交のなかで、注意深さを獲得し、互いに視線を交し合い、他者の視線を追跡し、他者が見る対象を共同で注意するようになり、やがて一人で、対象に注意するようになる>と考えることが出来るでしょう。これは他者の注意の理解を自分の注意の理解のシミュレーションで説明する理論への対案となるでしょう。