3月の桜です。おもうところあって、しばらく季節物の写真を掲載します。
人格の同一性を、身体の連続性にも、意識の連続性にも基づけられないとすると、次に考えられるのは、身体の連続性と意識の連続性の両方を組み合わせる考え方であろうか。
エイヤーは次のようにいう。
「記憶の同一性と身体の同一性という二つの基準は、相伴って働くものなのである。これらの基準から導かれる結果が、ほんの時たま矛盾することがあると、人の記憶はあてにならないという宣告が下される。しかしながら記憶の同一性と身体の同一性という二つの基準が根本的に異なる場合には、・・・・記憶の基準が優位を占めることが許されるような状況があるでもあろう。」(エイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.183)
これは、常識的な立場であるかもしれない。この立場をさらに徹底すると、ストローソンの「人格論」になるかもしれない。彼は、意識経験を同定するには、それを時間空間の中に位置づける必要があるという。それゆえに、我々の意識経験は身体と結合している。この「人格」こそが原初的なものであり、身体と心は、むしろ人格を分離することによって得られる概念であると考える。
では、このような主張の欠陥は、どこにあるのだろうか。
一つには、前回述べた欠陥つまり、原理的に考えるならば、我々の記憶を正しさを確証する方法がないということである。
もう一つは、この議論がヒュームの懐疑に答えられないということである。意識経験を同定するには、それを時間空間の中に位置づける必要があるとしても、そのことは意識経験が身体と結合しているということの必然性を示すものではない。確かに意識経験は常に身体と結合している。そして意識経験は、他の意識経験と結合して一つの連続体を構成している。しかし、ヒュームが発見したように、それらの意識経験の「結合の必然的結合が実在することを決して知覚することはできない」。
ヒュームは次のように述べている。
「互いに矛盾しないようにすることは私には出来ないし、また、そのいずれを放棄することも私にはできない、二つの原理がある。つまり、われわれのすべての相異る知覚は相異る存在である、ということと、精神は、相異る存在の間に何らかの必然的結合が実在することを決して知覚することはない、ということである。」(エイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.97、からの孫引き。ヒューム『人性論』第二巻、大槻春彦訳、第一編、第4部、付録p.150を参照)
では、どう考えればよいのだろうか。
エイヤーは、人格が精神的実体と考えるのではなく、理論的な構成物だと考える。「人格は他の物的対象と同様、理論の産物である」(エイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.189)。
次に人格の構成説について考えてみよう。