問い、役割、人格

 
良い写真がなくなったので、二年前の冬の写真です。
 
論旨が不明確であったかもしれないので、すこし復習しておきます。
・問題とは現実認識と意図の矛盾であり、そのような問題を解決するために、私たちは問いを立てます。
・私たちが生きることは、行為することであり、行為を構成する実践的知識は問いに対する答えとして成立するものでした。また、私たちが生きることは選択することであり、それは選択問題に答えることでした。これらの問いは、問いの連鎖のなかで成立しています。したがって、私たちが生きることは、問いの連鎖なのです。
 
今回は、問いと「人格」概念を関係づけてみます。
人類の歴史上、言語や国家が成立していない段階もあり、そこでも「人格」を考えることができるだろうと思うのですが、とりあえずここでは、現代社会における人生、人間ないし人格について考えてみます。ここで「人格」というときには、「人」「人物」と訳されることもある’person’を考えています。(日本人なのにどうして日本語をもとにして考えないのか、という質問に対しては、私がここで考えたいのは、日本人や日本社会についてではなくて、人類社会に広く成り立つ議論でだからです、と答えておきます。)
 
①役割=問題
 私たちは、自分のことを「画家」「政治家」「ビジネスマン」「投資家」「主婦」「学生」「研究者」などの社会的役割を表現する名詞で理解していることが多いのではないでしょうか。
 このような役割を自分に引き受けることは、<現実認識>の一部を構成するとともに、私の<意図や目標>の一部を構成することになります。つまりは、私が生きていくときに取り組んでいるある<問題群>を構成することになります。このような役割を引き受けるのは、人間ないし人格です。
 
②役割の束の連続
 ところで、私たちは一つの役割ではなく、「研究者」「教員」「男性」「中年」「夫」「父親」「息子」など複数の役割の束として自分を理解しています。「研究者」でありうるのは、人だけなのですが、人は「研究者」であるだけでなく、上記のように必ず他の役割も担っています。
 これらの役割は、時の経過とともに変化します。退職すれば、「教員」ではなくなり、「中年」から「老年」になり、離婚すれば「夫」でなくなり、親がなくなれば「息子」でなくなります。子供が死ねば「父親」でなくなり、性転すれば「男性」でなくなります。人格の同一性は、このような役割の束の連続的な変化として、理解できるかもしれません。この変化は、いつどこで生まれ、両親兄弟は誰であり、小学校、中学校、高校、大学はどこであり、大学で何を専攻し、卒業してどの会社に入り、いつ誰と結婚し、子供がいつ生まれ、いつどんな病気をして、いつ家を買い、いつ転職し、いつ離婚し、いつ親が亡くなり、いつ退職し、いつ死んだか。というような簡単な履歴とともに変化します。
 人格は、役割の束の連続的な変化であるということもできるでしょう。
 
①と②を組み合わせると、人格は、問題群の束の連続的な変化であるといえるでしょう。
 
 「人格は、問答ないし問答の連鎖である」というテーゼの説明のためには、このような人格が、社会と、つまり社会問題とどのように関係しているのか、を説明する必要があります。
 しかしその前に、次回からは、このような「人格」理解が、「人格の同一性をどう説明するか」という難問にどのように答えることになるのかを、見ておきたいと思います。
 
 
 

「人生は選択の連鎖である」

 
 
 
 
「人生は選択の連鎖である」
 前々回に「②人が生きることは、常に何らかの行為をすることです」と書きました。そして、行為することは意図を伴っており、意図はそれが実現されていない現実の認識とペアになっていると述べました。その意味で、行為は、つねに問題を解決しようとする行為なのです。そして、その意味で、「人生は問題解決の行為なのです」
 ここでは、人が生きることと問の結びつきを、別の仕方で説明したいとおもいます。
「人が生きることは、選択することです」あるいは「人生は選択の連鎖です」そして、「選択は、問いに答えることである」ということを説明したいと思います。
 
 『世界の中心で愛を叫ぶ』の片山恭一さんのブログを拝見していたら、<自由と平等だけでは、不十分だ。なぜなら、それだけでは、個人主義を乗り越えられないから。そこで第三のファクターを見つけることが重要な課題である>というような趣旨のことが書いてありました。まったくその通りだとおもいます。第三のファクターとして、これまでは「博愛」「隣人愛」「寛容」などが考えられてきたかもしれません。ただし、(多くの場合は)これらは個人主義を前提してそれを補完するものとして持ち込まれてきたように思います。
さて、第三のファクターは何か、という問題設定も重要だとおもうのですが、他方で、自由と平等について、それらが何であるかもう一度考えておく必要を感じます。なぜなら、物理主義によって人間の自由は脅かされており、自由やそれを前提した平等を自明視することはできないからです。
近代的個人主義に対しては、ロールズないしカント的な自我、「負荷なき自我」という近代的個人は幻想であり、それ自体が歴史的社会的な産物であるという批判があると思います。しかし、他方で、あらゆる属性、あらゆる社会関係から身をもぎはなし、それらを対象化して反省するということが可能であるように思われます。またその可能性の確保は、自由の確保のための必要条件であるとおもいます。
 
では、我々は実際のところどのような存在なのでしょうか。私たちは、どのような社会的な属性、社会的な関係からも身をもぎ離すことができますが、しかし、何らかの社会的属性、社会的関係を選択し引き受けることなしに生きることはできません。さらに、選択肢の設定そのものはすでに与えられています。もちろん、この所与の選択肢、選択状況から身をもぎ離すことができるかもしれませんが、それを実現するには、別の選択肢を設定する必要があります。そして、私たちの自由が、自由に何かを選択することであるとすると、それは選択肢を前提する必要があり、選択肢の選択そのものを自由に選択することができたとしても、さらにこの最後の選択について、さらに選択肢を前提することになります。選択の自由は、所与を前提して成立するのです。
「AかBか、どちらにするのだ」と問われて答えるのが典型的な選択です。この選択問題を構成している現実認識とは、「AとBが、いまここでの選択肢がある」であり、意図とは「どちらかを選ぼう」あるいは「どちらかを選ばなければならない」というのが意図であると言えるでしょう。この現実認識もまた別の問いへの答えであり、意図もまた別の問いへの答えです。
つまり、「人生は選択の連鎖であり、言い換えると、選択問題の連鎖なのです」
 
 
 
 
 

人格とは問答である

 
 
「人格とは何か」という問いに、「人格とは、問答あるいは問答の連鎖である」と答えたいとおもいます。まずこの答えの意味を説明しましょう。
 
今回は「問答あるいは問答の連鎖」の部分の説明をします。
 
①「問い」とは何か
 私たちが何かを問うのは、現実認識と意図の矛盾が生じるときです。現実認識は、現実そのものとは別のものですが、おおよそ現実を反映したものです。 現実認識は判断であり、命題の形式をとるものです。意図もまた、「・・・したい」という形式をとる命題です(拙論参照)。この二種の命題が、矛盾するとは、どういうことでしょうか。
 
②現実認識と意図の矛盾とはどういうことか、「生きる」とはどういうことか
 現実認識は、現実の有り様を反映している必要があります。さもなければ、それは生きることに役立たないだけでなく、危険をもたらすことにもなるからです。したがって、それは、当事者にとっては、現実と区別されていません。それを反省した時には、それは<現実>から区別された認識であると考えざるを得ませんが、そのときの<現実>とは、それ自体が、また現実認識に他なりません。私たちにとって、現実と現実認識はこのような意味で不可分に融合しています。
 人が生きることは、常に何らかの行為をすることです。そして、「何をしているのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは即座に「・・・しています」と答えることができ、「なぜ・・するのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは、即座に「・・・だからです」と理由を挙げることができるのです。この場合の「・・・だからです」という理由は、「・・・したいからです」という意図を説明するものになるでしょう。私たちは、何かの意図を持っており、その意図が現実世界と矛盾するとき、その矛盾を解決しようとして問を立てるのです。
 私たちが何かを意図するとき、それは常に現実と矛盾するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図しているかがり、Aは実現していないのです。ということは現実については、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現したい」は、論理的には矛盾しません。意図が実現を目指している状態である「A」と現実の「Aでない」が矛盾するのです。問いが、現実認識と意図の矛盾であるというときには、この意味での矛盾だと理解してください。(これは不正確な表現なので、この「矛盾」についてさらに分析すべきだと思いますが、ここでは横道にそれるので、これ以上の深入りをしません。)
 
③「人格は問答あるいは問答の連鎖である」
「全ての命題は、問いに対する答えとしてのみ意味を持つ」ということを、最初に主張したのは、コリングウッドです。そこでこれを「コリングウッド・テーゼ」と名付け、これの論証を行いました。(拙論1拙論2、参照)もしこれが正しいとすると、現実認識の命題は、別の問いに対する答えとしてのみ意味をもち、意図命題もまた別の問いに対する答えとしてのみ意味をもつことになります。つまり、問を構成する現実認識と意図は、それぞれ、別の問いに対する答えなのです。そしてその別の問を構成する現実認識と意図もまた、それぞれさらに別の問いに対する答えなのです。
 したがって、問は問答の連鎖の中で成立しているのです。したがって、生きることが、問答であるとすれば、「人格は問答である」さらに「人格は問答の連鎖である」といえるようにおもいます。
 
(まだ少し、あいまいですので、これから明晰にすべく努力します。)
 
 
 

橋本努の「問題主体」について

 
 
 
橋本努の「問題主体」について

 「問答としての人格」という書庫のタイトルをみて、橋本努の「問題主体」という概念を想起したひともいると思います。

 

 (私はずいぶん前から問答の考察が重要だと考え、その観点からさまざまな哲学テーマを論じなおしたいと思ってきました。ですから、橋本努の「問題主体」論に出会った時には、虚を突かれた感じがすると同時に、そのアイデアを自分もまた展開してみたいと思いました。しかし、私の研究は、いまだに理論哲学の領域で問答の観点を生かそうとすることだけで、手一杯です。これでは、いつになったら本格的に実践哲学についての論じられるのか、わかりません。そこで、とりあえず、このブログでそれを試みたいと思うのです。)
 
 橋本努は、『社会科学の人間学』の中で、「価値」をコアにする「近代主体」概念に代えて、「問題」をコアにする「問題主体」概念を提案します。これは、私にとって非常に啓発的なアイデアでした。ただし、現在私が考えたいと思っている「問答としての人格」は、内容的に橋本努の「問題主体」とは、ズレてきているかもしれません。(このズレについては、いずれまとめて検討したいとおもいます)。また問題意識も少し違うのかもしれません。なぜなら、ウェーバー研究者ある橋本は、「問題主体」を人格理念とか理想として提案しているようにみえるからです。私の以下の考察には、<あるべき人格像や、あるいは現実の人格を理解するための一つの理念型>を構想するという問題意識はありません。現実の社会で「人格」と呼ばれているものがどのようなものであるかの考察を目指しているだけです。
 
橋本努の「問題主体」については、上記の本を、またとりあえずは、
橋本さんご自身による自著の紹介のテキストをご覧ください。
大変面白いです。
 
 

もう少し寄り道

 
 
もう少し寄り道
 永井均の〈私〉の議論は魅力的である。とくに若い世代に受け入れられたように思われる。これは、若い世代が、不登校やニートや引きこもりになっていること、あるいは日本全体が無縁社会になっていることと関係しているように思われる。私たちが引きこもりたくなるのは、他者と比較したり比較されたり、他者と競争したりしたくないからである。あるいは、空気を読んでつねに同調することに疲れているからである。一方における極端な同調と競争と、他方における極端な引きこもりが、日本の社会の現状である。
 現代の社会では、個人は個として社会に投げ出されて、競争社会の中で生きていかなければならない。確かに社会の中で生きることは、さまざまな社会関係の中で生きることであるので、利害を共有する人たちがいるはずだ。しかし、その人たちと連帯することが難しくなっている。同じ会社のサラリーマン同士であるとき、利害を共有しても、他方では競争相手であるからだ。競争の激しさが、連帯を困難にし、個人を孤立させ、さらに人一人を押しつぶしている。
 国家や会社のために個人があるのではないとすれば、(途中の論証がまだないが)、個人や労働力が商品であるということはありえない。というわけで、我々の社会の再構築のためにも、「人格とは何か」に答えることが重要だ。
 
まだ本論に入っていませんが、何でもご批判比ください。
 
 
 

言わずもがな、への予想される反論

 
 
言わずもがな、への予想される反論
 
「人格論が重要である、という主張こそが、問題なのだ」という反論があるかもしれない。
「人格は存在しないのであって、人格にとらわれているからこそ様々な問題が生じることになるのだ」という反論である。このような仏教的な言説には、たしかに人々を解放する側面がある。しかし、そのような否定的は発言をするだけでは、人格にとらわれている私たちが直面している問題を解決することはできない。もちろん、彼らは、問題を解決するのではなくて、問題を解消することを勧めている。
 しかし仏教者がそのように勧めても、我々は相変わらず人格にとらわれて、人格を前提とした諸問題に悩まされている。そこには原因があるはずだ。(修業が足りない、という原因ではなくて、そもそもなぜ修業が必要になるのか、という原因があるはずだ。)人格は存在せず、それが存在すると思うのは、「物象化的錯視」(広松渉)であるかもしれない。しかし、物象化にはそれなりの原因があるはずである。マルクスや広松が明らかにしようとしたように、それは生産関係に基づくのかもしれないし、あるいは別の説明が可能かもしれない。人格が社会的に構成されるものであることは、仏教者もマルクス主義者もルーマンのようなシステム論者もあるいは構造主義者も、概ね認めることであろう。
 仮に人格が存在しないとしても、それが社会的にどのように構成されているのかを明らかにすることが必要である。というわけで、やはり「人格とは何か」という問いに答えることが重要なのである。
 
 もう一つ考えられる反論は、一般的な「人格」ではなくて、かけがえのない〈私〉(永井均)について考えることの方が重要であるという反論である。〈私〉についてどう考えるかは、形而上学の問題であって、これの答えがどうであれ、人格としての私たちが直面している問題は、そのまま残り続けるだろう。かけがえのない〈私〉は何か、という形而上学的な問題を重視することによって、比較の眼差しにさらされている現実の人間関係の問題から解放されるように感じた人々がいたが、それは孤立の問題や引きこもりの問題に形を変えただけかもしれない。〈私〉についての形而上学の問題は残るにせよ、やはり「人格とは何か」という問題は重要だ。
 
 
 
 

言わずもがな

 
 
                  
 
言わずもがな、であるかもしれないが、次のような理由で、人格とは何かを考えることは重要である。
 
・道徳や法は、道徳的な人格、法的な人格を前提している。
・意志の自由が重要な議論になるとすれば、そのこともまた、人格の存在を前提しているのではないだろうか。なぜなら、持続する人格というものが無ければ、意志が自由であっても、それは意志決定が自然現象から独立に偶然的に生じるということに過ぎなくなるように思われるからである。そのような意志の自由について論じることは、自然現象の偶然性について論じることと重要性において違いがないように思われる。
・さらに、もし人格がないとすると、人生の意味も、人生そのものも存在しないことになるのではないだろうか。
・また、社会を、近代の契約論者のように個人からなるものとして考えるのではなくて、ウェーバーやパーソンズのように行為からなるシステムとして考えるにせよ、あるいはルーマンのようにコミュニケーションからなるシステムとして考えるにせよ。我々にとって、そのような社会が問題になるのは、その社会の中で我々が人格として存在しているからではないだろうか。
・我々は常にすでに自分をある人格として理解し、人格として存在している。
 
したがって、我々が、生きる意味や、社会について考えるときに、「人格とは何か」を考えることは重要なテーマである。
 
というわけで、森の中に奥深く入り込んで行こう。