言わずもがな

 
 
                  
 
言わずもがな、であるかもしれないが、次のような理由で、人格とは何かを考えることは重要である。
 
・道徳や法は、道徳的な人格、法的な人格を前提している。
・意志の自由が重要な議論になるとすれば、そのこともまた、人格の存在を前提しているのではないだろうか。なぜなら、持続する人格というものが無ければ、意志が自由であっても、それは意志決定が自然現象から独立に偶然的に生じるということに過ぎなくなるように思われるからである。そのような意志の自由について論じることは、自然現象の偶然性について論じることと重要性において違いがないように思われる。
・さらに、もし人格がないとすると、人生の意味も、人生そのものも存在しないことになるのではないだろうか。
・また、社会を、近代の契約論者のように個人からなるものとして考えるのではなくて、ウェーバーやパーソンズのように行為からなるシステムとして考えるにせよ、あるいはルーマンのようにコミュニケーションからなるシステムとして考えるにせよ。我々にとって、そのような社会が問題になるのは、その社会の中で我々が人格として存在しているからではないだろうか。
・我々は常にすでに自分をある人格として理解し、人格として存在している。
 
したがって、我々が、生きる意味や、社会について考えるときに、「人格とは何か」を考えることは重要なテーマである。
 
というわけで、森の中に奥深く入り込んで行こう。
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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