人格とは問答である

 
 
「人格とは何か」という問いに、「人格とは、問答あるいは問答の連鎖である」と答えたいとおもいます。まずこの答えの意味を説明しましょう。
 
今回は「問答あるいは問答の連鎖」の部分の説明をします。
 
①「問い」とは何か
 私たちが何かを問うのは、現実認識と意図の矛盾が生じるときです。現実認識は、現実そのものとは別のものですが、おおよそ現実を反映したものです。 現実認識は判断であり、命題の形式をとるものです。意図もまた、「・・・したい」という形式をとる命題です(拙論参照)。この二種の命題が、矛盾するとは、どういうことでしょうか。
 
②現実認識と意図の矛盾とはどういうことか、「生きる」とはどういうことか
 現実認識は、現実の有り様を反映している必要があります。さもなければ、それは生きることに役立たないだけでなく、危険をもたらすことにもなるからです。したがって、それは、当事者にとっては、現実と区別されていません。それを反省した時には、それは<現実>から区別された認識であると考えざるを得ませんが、そのときの<現実>とは、それ自体が、また現実認識に他なりません。私たちにとって、現実と現実認識はこのような意味で不可分に融合しています。
 人が生きることは、常に何らかの行為をすることです。そして、「何をしているのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは即座に「・・・しています」と答えることができ、「なぜ・・するのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは、即座に「・・・だからです」と理由を挙げることができるのです。この場合の「・・・だからです」という理由は、「・・・したいからです」という意図を説明するものになるでしょう。私たちは、何かの意図を持っており、その意図が現実世界と矛盾するとき、その矛盾を解決しようとして問を立てるのです。
 私たちが何かを意図するとき、それは常に現実と矛盾するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図しているかがり、Aは実現していないのです。ということは現実については、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現したい」は、論理的には矛盾しません。意図が実現を目指している状態である「A」と現実の「Aでない」が矛盾するのです。問いが、現実認識と意図の矛盾であるというときには、この意味での矛盾だと理解してください。(これは不正確な表現なので、この「矛盾」についてさらに分析すべきだと思いますが、ここでは横道にそれるので、これ以上の深入りをしません。)
 
③「人格は問答あるいは問答の連鎖である」
「全ての命題は、問いに対する答えとしてのみ意味を持つ」ということを、最初に主張したのは、コリングウッドです。そこでこれを「コリングウッド・テーゼ」と名付け、これの論証を行いました。(拙論1拙論2、参照)もしこれが正しいとすると、現実認識の命題は、別の問いに対する答えとしてのみ意味をもち、意図命題もまた別の問いに対する答えとしてのみ意味をもつことになります。つまり、問を構成する現実認識と意図は、それぞれ、別の問いに対する答えなのです。そしてその別の問を構成する現実認識と意図もまた、それぞれさらに別の問いに対する答えなのです。
 したがって、問は問答の連鎖の中で成立しているのです。したがって、生きることが、問答であるとすれば、「人格は問答である」さらに「人格は問答の連鎖である」といえるようにおもいます。
 
(まだ少し、あいまいですので、これから明晰にすべく努力します。)