3.11 空気 同一性

 
 空気読む、春は遠いか まだまだか (へたですみません)
 
3.11 空気 同一性
 
 2011年の3.11のあと、あるパーティの立ち話で、「これからは哲学の時代ですね」と言われた。そのとき、その期待に応えたいとは思ったけれども、かなり難しいことであるとも感じた。そのときには、「心の豊かさ」や「生きる意味」を哲学が語ることが求められているのかと思ったのだが、最近は、哲学に求められていることの中には、社会のあり方、あるいはあるべき姿について、根本的に考え直す、という課題があると考えている。
 今ならそのような哲学に社会の方も耳を傾けてくれるのかもしれないと思う。(これについては、社会問題についての書庫をいずれ立ち上げたい。)
 
 最近3.11に関連して考えることは、3.11によって日本社会が変わった、空気が変わったとしばしば言われることについてである。9.11のときにも、世界が変わったと言われた。その時の私の当初の印象は、「そうかなあ」と言うものだった。しかし、「みんな」が「世界が変わった」と言うものだから、次第に私にも「世界はあまり変わっていない」と考えつづけることが困難になってきた。そのうち私にも9.11前の世界がどんな世界で、どんな気持ちで生きていたのかが、わからなくなってしまった。今回の3.11についても同様だ。「みんな」が「日本社会は変わった」と言うものだから、私も次第に3.11前の日本社会がどんなもので、どんな気持ちで生活していたのかが、わからなくなってしまった。そうなると、3.11は私にとっても、大きな断絶になる。
 
 人格の同一性について、書庫「問答としての人格」で思案中である。そこで確認したことの一つは、<人格の同一性は、他者とのコミュニケーションの中で成立する>ということだ。これと同じことが社会の同一性についても言えるのではないか。社会の同一性にも、客観的な基準があるのではない、日本社会の仕組みのようなものの連続性や同一性を主張しようとしても、それは他者とのコミュニケーションの中で確認される必要がある。その証拠に、戦前に日本社会の本質のように言われた「国体」なるものも、その同一性も、敗戦とともに消えてしまった。
 3.11で日本社会が変わったと「みんな」がいうので、日本社会は変わってしまったのである。「空気」が変わったのだ。
 
「空気」と「世間」
 昔は「世間」と呼んでいたものが、今は「空気」と呼ばれている。「空気」は「世間」と同じく同調圧力をもつが、しかし「世間」が持っていたような規範性をもたない。規範性の有無は、時間的な持続性の有無にかかわっている。「空気」はまさに「その場の」「その時の」ものであるが、「世間」はもう少し持続するものである。「空気」はどんなに変化しても、規範性を持たないので自己矛盾しない。しかし「世間」は変化しないものとして考えられている。両者の間には空間的な広狭の違いもある。「空気」は狭い範囲の人間関係のなかにもあるが、「世間」は公的な一つの社会に存在する。
 廣松渉にならって、「空気」も「世間」も物象化の所産である、といえるだろう。