相互覚知から生じる問題 

 
五月晴れ 緑の木々に 鳥が鳴く
 
07 相互覚知から生じる問題 (20120527)
 
 相互覚知が生じることによって、ヒトの群れに生じる問題は、西田定規さんが、言語の発生の原因になったと考えているある事態と(同じではありませんが)よく似ています。西田定規さんは『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫)の第十章「家族・分配・言語の出現」において、ヒトはオナガザルに襲われた時に彼らを追い払うために、石や棍棒を携帯するようになったが、それは同種同士の喧嘩においても、互いにとっても危険な存在になったということです。鋭いキバなどをもつ動物の場合には、同種の殺し合いが生じないように、攻撃抑制の遺伝的なメカニズムを持っている。しかし、霊長類の場合、同種内の殺し合いが、カニクイザル、ラングール、ゴリラ、チンパンジーで観察されているそうです。
 この争いの原因の中心は、食べ物と性であろうということです。そこで、食べ物の分配と、家族(性の対象を特定の異性に限定する)が争いを防ぐために作られたのだろうと、西田は推定します。類人猿は、「挨拶行動や宥和行動によって互いの緊張を解消し、また親和的であることを確認して」います。これは毛づくろい、抱き合い、交尾の姿勢をとるなどによって行われますが、それには身体を接近させる必要があります。しかし、「棒や石をもった人類が、安全を確認する前に身体を接近させることは、はなはだ危険なことである」(p.246)そこで、音声による伝達が類人猿よりもはるかに重要な位置を占めるになったのであろう、と西田定規は推測しています。(もちろん、私には判定する能力がありませんが、この議論は説得的であるように思われます。)西田定規さん、人類の最初の言語をこのような「安全保障の言語」であったと考え、それに対して、分配や計画、命令、約束などの言語を「仕事をする言語」と呼んでいます。
 西田定規さんの議論で一箇所だけ気になったところは、「われわれは、挨拶に答えないことが原因になって緊張が生じてくるかのように感じるが、そうではなくて、挨拶を無視すれば、出会うことで生じた緊張が解消されないまま顕在化してしまうのである」(前掲書p.248)と言われているところです。彼はおそらく次のように考えています。<挨拶に答えれば、緊張を鎮めることになるが、挨拶をしなければなになかったのと同じである。挨拶に答えなかったときに、緊張が生じるように感じるのは、錯覚であって、以前からあった緊張が顕在化するだけだ。>これは、<言語によるコミュニケーションは相互覚知を前提して、初めて成立する>という想定が正しいとすれば、間違いです。なぜなら、相互覚知が成立しているところでは、<挨拶することは、仲良くしようという意図を伝えること、そしてその意図を持つことが相互覚知になることを意図しています。したがって、そのような状況で挨拶に答えないことは、仲良くしようという意図をもつことを相互に覚知しているにもかかわらず、それ無視したことになり、しかも無視したことが相互に覚知されることを予期することになるからです。>
 相互覚知が成立しているところでは、<どのように行為するにせよ、そこの何らかの意図が読みこまれてしまうこと、しかもそのことが相互に覚知している>という状況が発生しており、そのことが、<望んでいないのにもかかわらず伝わってしまう意図をコントローする>必要を生じさせるのです。つまり敵意をもっているかのように伝わってしまうことのないように、つねに態度や発声を反省し、それをコントロールする必要が生じるのである。言語がこうして生まれてきたのではないでしょうか。
 相互覚知によって、言語によるコミュニケーションが可能になると同時に、相互覚知がなければ生じなかったような誤解の発生も可能になるので、それを避けるためにも、言語によるそのコントロールが必要になるのです。
 
 
 
 

相互覚知の成立時期

奈良からみた金環日食です。
これって、太陽を見ているのでしょうか。それとも月をみているのでしょうか。
 
 
06 相互覚知の成立時期 (20120521)
 
私が「共有知」と呼ぼうとしているものについては、書庫「世にも奇妙な「共有知」」を読んでいただければありがたいです。しかし、これは、通常「共有知」とか「相互知識」と呼ばれているものとは、少し異なっています。通常「共有知」と呼ばれているのは、xとyがいた時に、pを二人が知っていることを、二人が知っていることを、二人が知っている、・・・というような自体なのです。しかし、しかし、知や信念の主体は、最終的には、個人であるので、最後には「・・・・と、xは思っている」という表現になってしまいます。もちろん、yも同じように考えている可能性はあるのですが、そのこととも、最終的には、「xさんは、そう思っています」ということになります。これに対して、私は、個人主体の知に還元されないような、まさに一つの知を共有知と呼ぼうとしています。(残念ながら、それの証明は、まだ十分な形では出来ていません。)
 
前回、「共有知が生み出す個人では解けない問題」を、解決するために生み出されたのが言語であるという仮説をのべました。しかし、共有知というのは、(私の場合も、通常の場合も)命題知を共有することを意味します。しかし、ここでは言語が成立する前の共有知についての問題にしたいのです。つまり、そこで共有されているのは命題知ではありません。ある種の気づきのようなものです。それはグレゴリー・ベイトソンが「相互覚知」(mutual awareness)と呼んだものです。それは、人間と人間が出会い互いに相手の目を見た時には、互いに目があったことに気づくということです。つまり、相手が私を見ており、私が相手を見ていることを、二人はともに気づいており、そのことに二人はともに気づいており、・・・という自体のことです。
 
 そのような相互覚知を類人猿がもつだけでなく、家畜も持つだろうと、ベイトソンは述べています(ロイシュとの共著『コミュニケーション』)。しかし、私には、それは信じられません。相互覚知が成立するためには、相手が自分を見ていると気づくことが必要であり、自分に気づくことつまり、自己覚知が必要であり、しかし、牛などの家畜は、自己覚知を持たないからです。マカクザルもまた自己覚知を持たないかもしれません(板倉昭二さんの研究によると、自己覚知を持つのかもしれません。板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書)。これを持つとはっきりと言えるのは、チンパンジーです。
 自己覚知(Self-awareness)というのは、鏡を見た時に自分が写っていることに気づくということです。これを調べるマークテストというのがあります。それは動物が寝ているあいだに、赤い印を額や耳につけて、目覚めたあとに鏡を見て、それに触るかどうかを調べる有名なテストです。チンパンジーはこのテストにパスします。つまり、ヒト族のチンパンジーは、自己覚知を持っているということです。それゆえに、ヒト族の中のヒト亜族のアウストロラロピテクスも自己覚知を持っていただろうとおもいます。
 
 では、チンパンジーが相互覚知を持つかどうかですが、私にはどのような実験をすれば、それがわかるのかわかりません。ただし、私はチンパンジーはおそらく相互覚知を持たないだろうとおもいます。
 自己覚知があるとしても、「相手が私を見ていることに私が気づく」ということが成立するとは限らないと思います。これは相手の気づきについての気づきがひつようだからです。マークテストをパスするよりももっと複雑です。さらに、「私が相手を見ていることを、相手が気づいていることに、私が気づく」ということも必要ですが、これはもっと高度です。私は、チンパンジーには、おそらくこのようなことは不可能だろうと推測するのですが、しかし根拠を示すことは出来ません。
 これと同様に、アウストラロピテクスにとっても、おそらく相互覚知
は不可能であっただろうと思っています。これもまた根拠はありません。打製石器をつくる様になった人間ホモ・ハビリスならば、それが可能になったかもしれませんが、おそらくは、もっと後だろうとおもいます。これもまた根拠はありません。
 言語の発生を、ホモ・ハビリスに想定する研究もあるようですが、多くの研究者は、もっと後の時代に想定しているようです。私は、相互覚知が引き起こす問題を解決するために、言語が登場したと考えますので、相互覚知の成立は、言語成立時期とあまり変わらないと考えます。したがって、言語の発生がもっと後ならば、相互覚知の発生ももっとあとになるでしょう。
 このような相互覚知によって、ある問題が生じて、それを解決するために言語が生み出されるというのが、私の仮説です。それを次回に説明します。
 
 
 

 言語の起源について

 
     a Japanese balloon bombe の説明文です。
 
 
 
05 言語の起源について (201205015)
 
(言語起源論という悪名高い深みにはまってしまって、しばらく思弁的な勝手な推量を語ることになりそうです。)
 
復習ないし議論の再構成をしたいと思います。
 
「動物の群れと人間の社会を区別するものはなにだろうか?」
これに対して、「言語の有無だ」と答えると仮定しよう。
 
もし言語の有無によって、動物の社会から人間の社会を区別できるのだとすると、私たちは、次のような社会の定義を仮定することもできるだろう。(この二つの仮定が、必然的に結合しているのかどうかを検討してみる必要があるが、それはまだ未確定である)
 
仮定「個人では解けない問題を解決するために作られたものが、社会(社会制度)である。個人では解けない問題を解決しようとする活動が、社会運動である。社会制度や社会運動はそのようなものとしてのみ正当化されうる」
 
このように考えた時に「言語は、社会制度なのかどうか」という問いにはどう答えることになるのだろうか。これに対する答えには、肯定と否定の答えが可能であり、アンチノミーになりそうだ、と前回のべた。
 
しかし、この問いに対しては、とりあえず、次のように答えることにしたい。
<言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものである。それゆえに、社会制度であるように見える。しかし、言語によってはじめて解決される個人では解けない問題は、当事者が言語で考えている問題ではない。したがって、「言語は、個人では解けない問題を解決するために作られた」と言えるとしても、それは当の個人による理解ではなくて、記述する者が「個人では解けない問題」であると記述しているにすぎない。>
 
では、「言語を生み出すことになった、個人では解けない問題とは何であったのだろうか?」
これに対して、以下で提案したい答えは、次のとおりである。
「言語が成立するには、共有知の成立が前提となるだろう。そして、その共有知の成立が、個人では解けない問題を生み出したのだろう。」
 
(もし、類人猿は共有知を持たないとすると、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題を解いたのが人間であり、解けなかったのが類人猿であったとは言えないことになる。つまり、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題は、そもそも類人猿には生じなかったのだ、と言うことになる。このように考えるとき、「言語ではなくて、共有知が、動物の群れと人間社会を分けるものだといえるのではないか」という疑問が生じる。これについては後で考えよう。)
 
まずは、共有知によって生じた個人では解けない問題とは何であったのかを、推測してみよう。
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言語の発生や学習において、発話の意味を理解するよりも、次の①や②の理解が先行するだろう。(Davidsonは発話の意味の理解よりも、主張という発語行為の理解が先行すると考えた。ところで、発話は主張型発話には限らない。命令、警告、依頼、約束等々のその他の発語内行為もある。命令と警告の区別や、依頼と約束の区別などは、発話の意味の理解ないし想定なしには大変難しいだろう。主張しているのか、約束しているのかの区別についても、発話の意味の理解なしには難しいのではないだろうか。しかし、より曖昧な仕方でのつぎのような理解は、発話の意味の理解や、発語内行為の理解に先行して可能なのではないだろうか。)
 
①何かを伝えようとしていることの理解
②何かに注意を向けようとしていることの理解
 
例えば、外国人が何かを伝えようとしているが、何を伝えようとしているのか、わからないということがあるかもしれない。たとえば、質問しているのか、何かを依頼しているのかわからないことがあるだろう。そのときでも、彼女が何かを伝えようとしていることはわかるだろう。例えば、誰かが何かを指さして、大声を出しているとすると、何を指示しようとしているのかはわからないとしても、何かに注意を向けようとしていることがわかるだろう。
 
ところで、私たちは、次の二つの理解を区別できる。
 
(1)内容はわからないが、相手が何かを伝えようとしていることを理解すること
(2)相手が伝えようとしている内容を理解すること
 
この(2)が成立しなくても、(1)は成立しうる。(ところで、(2)が成立するときには、(1)が必ず成立していると言えるかどうかについては、ここでは未確定にしておきたい。)
 
この(1)と(2)の各々について、共有知が成立しうる。
(1)の理解についての共有知は、(2)の理解や(2)の理解の共有知がなくても成立しえる。
((2)の理解の共有知が成立するときには、(1)の理解の共有知が必ず成立するかどうかは、ここでは未確定にしておきたい。)
 
共有知とは何かを説明してから、それが生み出す個人では解けない問題を説明しよう。
 
 

群れをつくる理由

 第二次大戦中に日本軍が放った風船爆弾は、ここOmahaで爆発しました。しかし、けが人は出なかったそうです。 このあたりは、Omahaのビバリーヒルズとよばれているところです。
 
04 群れをつくる理由 (20120509)
 
Wikipediaで調べると、動物が群れを作る理由としては、次のようなものが指摘されているようだ。
  ・他の種の動物から身を守るために集団でいた方が有利。
  ・餌をとるのに、集団の方が有利
  ・過酷な環境に耐えるのに、集団でいた方が有利
  ・生殖相手を見つけるのが容易
群れを作るデメリットとしては、次が考えられているようだ。
   ・仲間から攻撃を受ける可能性がある
 
さて、人類の祖先の動物が群れを作ったとき、上記のような理由であったとすると。個体では解決できない問題を解決するために群れを作った、といえる。また、森の中からサバンナへと群れとして移動したのだとすると、それもまた、個体では解決できない問題を群れで解決したといえる。
 
このような群れが、次の仮説「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」を前提するときに、「社会」だと言えるかどうかは、「問題を解決するために作られた」をどのように解釈するかに依存する。
 
たとえば、チンパンジーが、固いクルミの実をとるために、石をつかって、殻を壊しているとしよう。「チンパンジーは、石を使うことによって、「どうやってクルミの実を取り出すか」という問題を解決したのだ」と語ることができる。しかし、そのように語るのは人間である。チンパンジー自身が「どうやってクルミの実をとりだすか」という問いを立て、それに答えたのではない。「問題を解決する」によって、<言葉にして問いを立て、それに答えること>を意味するなら、このような意味で社会を作るのは、言語を持つものだけである。このような意味で「社会」を理解するなら、社会が登場するのは、言語の発生の後である。
 
オーストラろピテクスが、霊長類のなかで出現するまえから、人類の祖先は群れで生活していたかもしれない。もしそうだとすると、群れを作った時に、言語を持っていなかったことは確実である。 言語は、群れの生活の中で出現したのだといえる。
 
言語そのものは、社会制度だと言えるだろうか。先の仮説を採用するとき、言語は社会制度になるのだろうか。言い換えると、言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものだといえるだろうか?「そのとおり」と答えたくなる。
しかし、他方では、言語が何かの問題解決のために作られたとしても、その問題はまだ言語化されていないはずである。したがって、この仮説によれば、言語は社会制度ではないことになる。
 
これをどう考えたらよいだろうか。