ボローニャで「世界」を考える

                                     ボローニャの中心マジョーレ広場の噴水です。
 
06 ボローニャで「世界」を考える (20120924)
 
 先週は、ボローニャで開かれた第八回国際フィヒテ学会大会に参加していました。例によって、海外でのネット接続がうまくゆかなくて、ブログの更新が遅れて失礼しました。
 
 その大会である発表を聞いている時に思ったことを書きます。その発表者は、「世界」という概念を多用していました。そこでは、フィヒテの「世界」概念が特に問題になっていたわけではありません。つまり、西洋哲学の世界で通常使う意味の「世界」であったのです。西洋哲学を勉強している私には馴染みの概念です。しかし、この「世界」は、現代の自然科学的な意味の物理的「世界」でも、社会学者や政治学者が用いる国際社会という意味での「世界」でもありません。それら二つの「世界」概念は、グローバルに通用する概念です。それに対して、これは(曖昧な言い方になりますが)ある精神的文化的な意味の「世界」です。この「世界」は、ヨーロッパのある時代に通用しているローカルな概念です。日本人の「世間」という概念が、日本のある時代に通用しているローカルな概念であるのと同様です。
 もちろん、現在の日本で「世間」という概念が生き生きとした意味を持っているのと同様に、ヨーロッパではこの「世界」概念が、生き生きとした意味を持っているのです。しかし、それはグローバルな概念ではありません。
 そして、このようなローカルな「世界」概念を用いた哲学は、グローバルな哲学にはならないように思います。それをグローバルな概念にするには、少なくともそれについてのグローバルに共有可能な説明を与える必要があります。しかし、それをグローバルに通用する概念だけで説明することは、日本語の「世間」をグローバルに通用する概念だけで説明することが難しいのと同じように、非常に困難です。
 

 
 
 

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「ボローニャで「世界」を考える」への1件のフィードバック

  1. I really like your writing style, excellent info, thank you for putting up :D. “He wrapped himself in quotations- as a beggar would enfold himself in the purple of Emperors.” by Rudyard Kipling.

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