15 「攻殻機動隊」の自我論

 
15「攻殻機動隊」の自我論 (20141020)
 
しばらく、音信不通で失礼しました。取り上げたいテーマはあるのですが、本来の仕事、つまり論文と講義があって、うまく時間が取れませんでした。
 
さてしばらく「攻殻機動隊」の自我論を論じたいと思いますが、これは書庫「物理主義からの倫理」に続くべきテーマでもあります。「物理主義からの倫理」では、心についての物理主義ないし消去主義を採用したときに、法や道徳はどのようなものになるのか、あるいは消去されるのか、を考えようとしました。そこでの答えは未決定のままになっています。その問題を考えるときに、人が道徳や法の責任主体となりうるかどうかを検討しましたが、個人が(自由ではないとしても)主体であることを前提して議論しました。しかし、物理主義の時代になっても、個人が主体であり続ける保証はありません。一方で、個人は、分人に解体するかもしれません。他方で、個人はネットワークにつながることによって主体性を喪失するかもしれません。後者の可能性を考えるときに、「攻殻機動隊」の世界観は非常に興味深いものであり、その自我論を検討する価値があるあると感じました。この流れでは、いずれ別途書庫を立てて追究したいと思います。
 
他方で、「攻殻機動隊」の自我論は、戦後日本の自我論の流れの中でも重要な位置を占めると思います。そこでそれを戦後日本の自我論の中に位置づけたいとおもいます。「近代的個人」に対する批判は、戦前からありました。それは個人を「社会的諸関係の総体」として捉えようとする見方であり、右翼も左翼もこの点に関しては一致して、近代的個人を批判してきました。しかし1990年ころから戦後思想は大きく変化してきているように思われます。自我論は重点を物語論や多元主義に移してきており、そのなかで「分人主義」も現れてきました。「攻殻機動隊」(士郎正宗の原作1989年)の自我論は、個人が分人に分かれるというより、個人がネットを介してつながり、その意味で個人を超える、あるいは個人性を喪失するという事態を捉えています。「分人主義」と逆方向の展開ですが、しかし互いにリンクするところも多いと予想します。分人主義との関係、あるいは戦後自我論の中での位置づけについては、あとで考えることにして、まずは「攻殻機動隊」の世界観、そこでの自我論、そこで提起される自我に関する問いの確認を行いたいと思います。
 
ここでは、攻殻機動隊のストーリーやキャラクターは扱いません。大塚英志の指摘するように、物語は、世界観とストーリーとキャラクターに分解できるでしょう。ストーリーは、さらに要素物語に分解され、その要素物語の直列や並列から構成されるシークエンスだと言えるでしょう(プロップとそれに続く物語論はこれを研究してきました)。ここで紹介し考察したいのは、「攻殻機動隊」の世界観とりわけ自我論です。
 
本作世界の基本的な技術は、「電脳化」と「義体」であり、Wikipediaの項目「攻殻機動隊」によると次のようなものです。
 
「脳にマイクロマシンなどを埋め込み、人間の脳とコンピュータネットワークを直接接続したバイオネットワーク技術。脳そのものを機械に変えてしまうことも電脳化と呼び、制御ソフトを導入するタイプの高性能な義足・義手などはこの電脳化を施す必要がある模様。」
 
「本作世界におけるサイボーグ技術。義手、義足、人工臓器の概念を全身に拡張、草薙のように、脳と基幹神経系だけを残してほぼ全身を人工物に置換したり(完全義体化)、逆に電脳化を行わず肉体だけ義体化することも可能。」
 
登場するのは、電脳化した人間、義体化した人間、その両方を行った人間、それから人工知能を搭載したロボットです。このような世界で、電脳化によってつながった人間はどうなるのか、ネットでつながったロボットは、人間と同じようになるのか、作中では「ゴースト」を持つようになるのか、という言い方をされています。
 
本作の世界観は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の冒頭で次のように表現されている。
 
「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思を、ある一方向に向かわせたとしても、“孤人”が、複合体としての“個”になる程には、情報化されていない時代・・・」