03 部派仏教の「無我」の矛盾

03 部派仏教の「無我」の矛盾 (20150602)

部派仏教に属する『倶舎論』で、世親は「我は存在せず、煩悩と業とによって形成される薀(うん)のみがある」という。この五薀とは、色(肉体)、受(感受作用)、想(知覚作用)、行(意志作用)、識(認識作用一般)である。しかも五薀は、刹那に生滅する。つまり、瞬間ごとに生滅を繰り返しているという(参照、三枝充よし著『世親』講談社学術文庫、p. 95, 112)。部派仏教では、自我は存在しないと考えるが、それを構成している五薀が存在していると考えるようだ。

この場合、「自我が存在しない」とは、不可分で持続的な実体として存在するのではないという意味になるだろう。ただし、おそらく部派仏教は、他方では「五薀の刹那の生滅を貫いて、それによって構成されている自我が存在している」と語ることを(何らかの意味で)認めるだろう。(ここで、西洋でのロック以来の自己同一性をめぐる議論と似た議論を繰り返すことが可能かもしれない。これについては、書庫「人格とは何か」で論じたのだが、その時の議論では他者とのコミュニケーションの中で自己同一性を構成するしかないという結論になった。仏教のなかには、自我の同一性を他者とのコミュニケーションによって構成するというようなたぐいの議論は無いようにおもわれる。)

部派仏教は次のように考えるのかもしれない。「自我は実体としては存在しないが、構成されたものとして存在する。このとき、自我の構造の同一性、ないし連続性が、自我の同一性を意味する。そしてその構造の同一性や連続性があると考えることを否定するものではなく、その基底に実体的な自我が存在すると考えることを否定するものである。」

 このとき、自我は五薀という要素から構成されている。その構成は、五薀が因果関係(縁起)によって変化することによって構成されている。ところで、このとき仮にある自我が苦しんでおり、その苦しみが煩悩を原因としているとしても、その煩悩にもまた原因があり、それによって生じている。このとき、この苦を滅する方法などあるのだろうか。その人がどのように振る舞うかは、縁起によって決定しているのではないだろうか。このような自我は全く縁起の産物であって、縁起を抜け出たり、それを変更したりする可能性はないだろう。このような自我論はそれ自体では整合的であるかもしれない。例えば、現代の心の哲学の物理主義者はこのような自我論を取るかもしれない。しかし、これれは仏教の四聖諦、とりわけ滅諦と道諦に矛盾する。

苦諦:人生は苦に満ちている(四苦八苦)

集諦:苦には原因がある。それは煩悩であり、究極的には無知(無明)である(十二支縁起)。

滅諦:苦を消滅させることができる(解脱)。
  道諦:苦を消滅させるための方法(八正道)がある。

仏教は、この矛盾をどうやって克服するのだろうか。

02 仏教の根本問題

02 仏教の根本問題(20150602)

・仏教の特徴は、無我(anātoman, not-self)を主張することである。

・仏教のその他の思想の多くは、当時のインドで一般に認められていたことである。人が死と再生を繰り返すという輪廻(Samsara)の思想も、輪廻転生は、天・人・餓鬼・畜生・地獄の五道、ないしこれに修羅を加えた六道のいずれかに変わるという思想も、何に転生するかは業(karma)(道徳的行為)によって因果的に決定するという思想も、仏教以外のインド思想にも共通のものである。

・しかし、この「無我」から問題が生じる。「もし自我が存在しないのならば、何が輪廻転生するのか」という問題である。ジャイナ教は、仏教に対してこの点を批判した。仏教にとっての根本問題だと思われるは「輪廻転生の主張と、無我の主張が矛盾するように見える」ということである。

・この根本問題はもちろん、輪廻転生を認めなければ生じない。そして現代人にとって、輪廻転生は荒唐無稽な思想である。(それは私たちが西洋近代に登場し発展した自然科学を認めているからである。西欧近代以後の自然科学を知らない当時のインドの人々にとって、輪廻を理論的に批判することは難しいだろう。例えば、身体の死とともに心もなくなると私が考えるが、しかし自然科学を知らなければ、身体の死後心がなくなることを説得ことは難しいだろう。したがってそれが転生する主張を批判することも難しいだろう。)

・しかし仮に輪廻転生と六道の話を取り除いて、縁起を現世の中だけで考えるとしても、やはり次のような問題が生じるだろう。「縁起の説明、たとえば煩悩による苦の発生の説明は、無我の主張と矛盾するようにみえる」ということである。

・「無我」や「空」の概念は、東アジアの人間にはなじみのものである。しかし、それらを理解することは非常に難しいことであるし、私たちはまだその明確な理解を手にしていないように思われる。仏教の歴史は、「無我」や「空」の概念を受け入れたうえで、それについての整合的な理解を作り上げようとする試みであったと言えるのかもしれない。そして、それはひょっとすると、まだ最終的にうまくいっていないのかもしれないし、うまくいかないのかもしれない。ひょっとする「無我」を認めなかったジャイナ教徒の方が正しかったのかもしれない。

・仏教徒たちがどのように理解しようとしてきたのかを、振り返りつつ、「無我」を整合的に理解できるかどうか、検討してみようう。