03 プラトンと龍樹から (20200512)

前回の知の成立を説明する上での難問に対するプラトンの答え、より正確には対話篇のなかでのソクラテスの答えは、少し長いですが、次の通りです。

「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれ変わってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何一つとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気を持ち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが――その想起がきっかけとなって、おのずから他の全てのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶということは、じつは全体として、想起するということにほかならないからだ。」

(『メノン』藤澤訳、81C-D)

彼は想起によって知の成立を説明します。これが有名なプラトンの「想起説」です。

ところで、龍樹もまたこれとほぼ同じ論証をしています。

「認識されたもの、あるいは認識されていないものについて疑惑を抱くことはない。(前者はすでに)存在し、(後者はいまだ)存在しないからである。

 このばあい人は、すでに認識された対象か、いまだ認識されていない対象か、あるいは現に認識されつつある対象について疑惑をもつのであるが、すでに認識されおわった対象について疑惑をもつことはありえない。まだ認識されていない対象についても疑惑をもつことはありえない。そして(以上の二つと別に現在)認識されつつあると言われるような、第三の対象も存在しないのである。したがって、疑惑は存在しないのである。」(龍樹「ヴァイダルヤ論」118a、梶山雄一訳(『大乗仏典14』中公文庫)p.208-209)

この「疑惑」を「問い」と置き換えてもよいでしょう。<認識されている対象ついてはもはや問う必要はないし、認識されていないものについては問いを抱くこともできない。したがって、「問い」というものは存在しない>というのがここでの龍樹の主張です。

この主張に対して、龍樹は次のような反論を予想しています。

遠くに、杭であるのか人であるのかはっきりとしない対象が見える時、「あれは杭であるのか、人であるのか?」という問いが生じる。「(対象の)特殊性(についての認識)が欠けているために(起こるの)である」(p.209)

この反論に対する龍樹の応答はこうである。

「もし真知の特徴が欠けているならば、それは無知であって、疑惑ではない。」

「特殊性を見て、知識となり、特殊性を見ない場合には無知が生ずるのである。頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない(で真知となる)のであり、特殊性がない時には無知にほかならない。すなわち、こうなる。特殊性があれば知識となるし、それがなければ無知である。特殊性(の存在)と特殊性の無存在とが同時にあるような第三の場合はないのであるから、疑惑があるとはいえない。」p. 210f)

この反論には納得行きません。なぜなら「頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない」ということを認めるとしても、それではなぜ「「頭をめぐらしたり、手を動かしたりする」のでしょうか、それは疑惑(問い)が生じるからではないでしょうか。(疑惑)問いがなければ、これらの行為を説明できないでしょう。

私は、龍樹が想定している「対論者」の主張が正しいように思います。対象について、一部は知っており、一部は知らないので、その知らない部分についての疑惑(問い)が生じるというのが、対論者の主張です。これに対する龍樹の反論は、対象を部分に分けるとしても、それぞれの部分については、知か無知しかなく、それゆえに疑惑(問い)はない、というものになるのだと思います。

 このような反論を回避するため次のような問いを考えてみたいとおもいます。

  「xさんの車はどれですか?」

この問いは、「xさんの車」がどの車を指示するのかを尋ねています。

フレーゲは固有名(一つの対象を指示する語句)についてSinn(意味)とBedeutung(指示対象)を区別しました(通常は’Sinn’を「意義」、’Bedeutung’を「意味」と訳しますが、わかりにくいのでこのように訳します)。フレーゲは「意味」とは「指示対象の与えられ方」であると考えます。この問いを問う者は、「xさんの車」の意味を理解しています。しかし、その指示対象を知りません。問われた人が、「xさんの車は、あの赤い車です」と答える時、答える人は、「あの赤い車」の意味と指示対象を分かっています。返答者は、相手が「あの赤い車」の意味を理解し、その指示対象に辿りつけるだろうと想定して、この表現を答えに選んでいます。

 質問者が「あの赤い車」の指示対象にたどりつくとき、それが「xさんの車」の指示対象でもあるということです。「あの赤い車」と「xさんの車」はおなじ対象を指示する表現「共指示表現」です。

 問いを問う者は、意味と指示対象の区別にもとづいて問いを設定することができるのではないでしょうか。「その肺炎の原因は何ですか?」と問うことができるのは、「その肺炎の原因」の意味と指示対象を区別しているからです。