08 ネットの中での行為と認識 (20200628)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

 哲学では、伝統的に観想(テオリア)と実践(プラクシス)、認識と行為、言葉と行為を分けることが多いが、ネットの中でこの二つは区別できるのだろうか。

 ネットの中で行為することは、入力することである。たとえば、アマゾンで本を買うことは、本を選んで購入ボタンをクリックすることである。ネットの中で認識することは、グーグルで検索し、記事を選んでクリックし、それを読むことである。求める記事が見つからないときには、見つかるまで、検索に使用する語句を変更してやり直すことになる。記事が見つかれば、その記事を手掛かりに(もし必要ならば)さらに情報を探すことができるだろう。ネットの中では、行為も認識も記事を選択してクリックすることである。

 ネットの中での問うことは、語句を入力して検索することであり、答えをえることは、検索結果の表示を見ることである。ネットの中で問いかけられることは、クリックするかどうかの選択を迫られることであり、答えることは、クリックしたり、取りやめたりすることである。

07 権利を問答の権利として捉えることのメリットは何か? (20200627)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

<アクセス権>

 プライヴァシ-や知的所有権など新しく登場してきた権利を捉えるのに有用である。とりわけ、ネット社会における権利関係を説明するのに有用である。なぜなら、ネットの中における行為とは、情報交換、言い換えると問答しかないからである。したがって、ネットの中での権利は、問答の権利である。

 ネットの中での権利として特徴的なものの一つは、サイトへのアクセス権である。多くのサイトは、パスワードによって、特定の個人や集団にだけアクセス可能なものである。

 このアクセス権をどのように説明できるだろうか? アクセス権がないとは、あるサイトの中に入って質問したり、発言したりすることができないということである。アクセス権は、サイトの中での問答の権利である。

 たまたま手に入れたパスワードで、他人の情報をみることは、ただ見るだけで、悪用するのではないとしても、違法であるだろう。なぜなら、そのサイトの中の情報をみることは、そのサイトに問いかけて、答えを得ることに他ならないからである。これは、住居侵入に似ている。ただしここでの住居は、サイトであり、問答空間である。

(ネット社会に特有の権利として、他にどんなものがあるだろうか?)

#問題

 すべての権利を問答の権利に還元することは、あらゆる時代と社会の権利について成り立つことなのか、それとも西洋近代社会、とりわけの発展である現代社会において、始めて十全に成り立つようになったことなのか?

 その答えは、おそらく前者である。 ネットの中に限らず、人間社会は、ヒトの群れが言語を獲得して人間社会となって以来、コミュニケーションで出来ている。それは、<社会がコミュニケーションによる合意によって構成されている>ということだけでなく、<社会は、社会的事柄についての問いや答えの義務と許可と禁止のルールによって構成されている>

 対象Oについての情報は、AがBに質問してもよいもの/質問できないもの、Bが質問に答えられないもの/質問に答えるべきもの/Bが答えなくてもよいもの、などから構成されている。

21 四肢構造と二重問答関係 (3) (20200626)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(行為の四肢構造を考察すると予告したが、帰省中で手元に廣松の『存在と意味』第2巻がないので、前回の内容をもう一度検討しておきたい。)

 前回、認識の四肢構造と二重問答関係を関連付けるために、四肢構造を次のように解釈した。廣松が、認識の四肢構造を論じる時に念頭に置いているのは、主として対象の知覚行為である。そこでは、彼は命題形式を持つ認識内容について言及していない。しかし、仮に知覚報告として言語化されていない知覚行為であっても、すでに言語的に分節化されている。したがって、知覚が四肢構造をもっているのならば、認識内容が命題形式を持つ場合にも、四肢構造が成り立つだろう。

 他方で、発話は問いに対する答えとして明確な意味をもつのだとすると、認識は問いに対する答えとして成立することになる。そして、認識が四肢構造を持つのならば、問いに対して答えることも四肢構造をもつことになる。それは、次のように理解できるのではないだろうか。

・知覚における対象の二肢構造

  <<ガンの画像>としてのレントゲンの白い部分>

知覚のこの二肢構造は、発話の「レントゲンの白い部分は、[ガンの画像]Fである」という焦点構造に対応している。知覚のゲシュタルト構造(地図構造)が<として>構造に対応する。そして、知覚の地図構造が、発話の焦点構造に対応していると考える。

・主体の二肢構造

 <「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」を問うものとしてのひと>

発話は、大抵は(少なくとも暗黙的に)問いに対する答えとして成立する。したがって、ひとは問う者として、発話する。問うことは探求行為であり、探求行為には、目的がある。その目的を実現できれば探求は成功であり、その目的を実現できなければ、探求は失敗である。

 知覚にも成功と失敗がある。錯覚、幻覚はもとより、よく見えない、よく聞こえない、というのも知覚の失敗である。つまり、知覚も目的を持つということである。その目的は、問いの答えを見つけるということである。

 理論的な問いに対する答えを求める過程は、大抵は推論となる。問いの答えが知覚報告である場合、知覚報告は言語的な推論の結論として導出されるのではない。しかし、問いに答えるために知覚にとりかかる時、その知覚行為は、一種の探索行為である。探索行為としての知覚は、推論と同じく、問いに答えるプロセスとして成立する。知覚において、ゲシュタルトを知覚するとは、ある箇所に注目するということであり、それは発話において、焦点部分に注目することに似ている。

知覚のゲシュタルト構造が、知覚の<として>構造であり、発話の焦点構造が、発話の<として>構造である。発話の焦点位置は、その発話がどのような問いに対する答えであるかによって決まる。(もちろん、言語を持たない動物の知覚もゲシュタルト構造をもつだろう。それは、言語を持たない動物も探索するからである。すべての動物は、探索行動をおこない、そのための感覚器官をもつだろう。知覚がどのようなゲシュタルト構造をもつかは、探索の目的に依存するだろう。)

 廣松は、『存在と意味』第一巻の第一篇で「現相的世界の四肢構造」を論じ、第二編で言語論を扱うのだが、残念ながらその言語分析において、四肢構造を展開していない(それはなぜだったのだろうか?)。私たちは、上記のような仕方で、命題形式の認識についても四肢構造を読み取ることで、四肢構造論をより拡張できるだろう。

 ただし、このように四肢構造を理解する時、廣松が考えていた。<現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関している>という対応付けは出来なくなる。(対象の二肢構造と主体の二肢構造がどう関係するのか、については、行為の四肢構造を考察した後で改めて考えたい。帰省から戻る来週になります。)

20 四肢構造と二重問答関係 (2の仕切り直し) (20200623)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

廣松の言う認識の四肢構造は、

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

であるが、これを簡略化すると次のようになる。

  <ある主体が或者として、ある所与を或物として、認知する>

この四肢構造論は、私には、非常に啓発的であるように見えるが、しかし、この四肢構造論をさらに展開したり応用したりするような研究は現れていないように思われる。そこで、「二重問答関係」を用いて、四肢構造論を発展させたいというのが、私の意図である。

 しかし、前回とりかかった「四肢構造論」と「二重問答関係」の結合はうまくゆかなった。

前回最後に、「廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい」と述べたが、それを考察しても、「四肢構造論」と「二重問答関係」の結びつけはうまくゆきそうにないので、以下では、仕切り直して、前回部分を丸ごとやり直すことにする。

#二重問答関係の例1

   犬小屋を作ろう思って、ホームセンターの木材売り場に行き、「どの板がよいだろうか?」と問い、ある木の板をみて「この木はなにだろう?」と問い、「これは杉の板だ」と答える。

「これは杉の板である」から、「杉の板は丈夫ではないが、加工しやすい。犬小屋の板はそれほど丈夫なものである必要はない。この杉の板は安い。この杉の板がよいだろう」と答える。

Q2「どの板がよいだろうか?」→Q1「この木は何だろう?」→A1「これは杉の板だ」→A2「この板がよいだろう」

このような二重問答関係があるとしよう。ここでは、次のことが成立している。

・犬小屋を作ろうとするものとしてQ2を問う。

・Q2に答えようとするものとしてQ1を問う。

・Q1を問う者として、A1を答える

・Q2を問う者として、A2を答える。

・この例でわかるように、問うのは、より上位の目的のためである。「その目的の実現を実現するにはどうすればよいのか?」という実践的な上位の問いをとくために、問いを立てるという関係にある。

・この例でわかるように、答えるのは、問う者として、であると言えそうだ。他者から問われたときには、問う者と答える者が同一でないが、そのときでも、答える者は、問われたものとして答えるのである。答えるのは、問う者として(あるいは問われたものとして)答えるのである。

以上を四肢構造に即して表現すると次のようになる。

 <Q1を問う者は、より上位の問いQ2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとは、Q2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとは、Q1を問う者として、A1を答える>

#二重問答関係の例2

 Q2「この人は健康だろうか?」という問いに答えるために、「Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」を問い、A1「それは、肺がんの画像(意味的所識)である」と答える。

この答えから、Q2の答えA2「この人はガンに侵されている」を得る。

 <ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとはQ1を問う者として、答えA1を得る>

 <ひとはQ2を問う者として、答えA2を得る>。

廣松のいう認識の四肢構造は、次であった。

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

この四肢構造で、上記の問答関係を表現すると、例えば次のようになる。

  <人は、Q1を問う者として、答えA1を得る>

対象の側である答えA1は、二肢構造になっていないが、しかし答えの命題は、問いにおいて既に与えられている部分と、答えの中で新しく提供される焦点部分に分かれており、その焦点構造を<として>構造として解釈できる。それは次のようになるだろう。

  <レントゲンの白い部分は、[ガンの画像]Fである>

  <<ガンの画像>としてのレントゲンの白い部分>

上記の例のなか、<ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>については、対象の側の二肢構造を、   

  <(空白)>としてのレントゲンの白い部分>

のように解釈できるだろう。

廣松は、認識の四肢構造を、知覚を念頭に分析しているので、対象が二肢構造(<として>構造)をもつことになる。これは、知覚のゲシュタルト構造(地図構造)とうまく一致する。しかし、認識を「私はpを知っている」などの命題的態度として捉えると、「知識についての問答関係論」(これについては、いずれ説明します)には都合がよいのだが、四肢構造論を当てはめることに無理があるのかもしれない。

次に行為の四肢構造を考察しよう。

19 四肢構造と二重問答関係(2) (20200622)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

認識の四肢構造は次のようなものであった。

<能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

対象の側にも主体の側にも、「として」構造という二肢構造がある。これが四肢構造である。対象がどのようなものとして現れるかは、主体がどのようなものとして対象を見るかに依存している。前回の例で言うと、<人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する>となる。

#対象の「として」構造と問答

対象の二肢構造(「として」構造)は、<認識が問いに対する答えとして成立する>ということによるのではないだろうか。たとえば「AはBである」という認識の場合、それは次の問いの答えとして成立する。

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

この答えは、「AをBとして」とらえている。上の例では、認識の主体は、次の問答を行っている。

  Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問い、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と答える。

#主体の「として」構造と問答

では、主体の「として」構造は、認識における問答とどう関係しているのだろうか。

認識が成立する時、主体が次の問答を行っているとすると、

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

Q1を問う者が、A1を答える者として、認識しているのだろうか。上の例でいうと、<Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問う人(能知的誰某)が、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と医者(能識的或者)として答える>のだろうか。つまり、能知的誰某と能識的或者の二肢に、問うことと答えることを割り振ることができるのだろうか。

 それとも、この割り振りは間違っており、問うことも、答えることも、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>がおこなうのだろうか。「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」という問いよりもさらに、専門的な問い、たとえば「レントゲン写真の肺の左下のこの小さなうっすらと灰色になった部分は何か?」というような専門家でなれば設定できないような問いを考えるならば、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>が問うのだという方がよいかもしれない。この場合には、二肢構造を持つ主体が、問いを設定し、それに答えることになる。

 この二つの解釈の内、どちらが正しいのだろうか?

廣松は、四肢の関係について次のように述べている。

「われわれは、能知的主体が、[…] 現相的所与の帰属者たるかぎりで「能知的誰某」と呼び、能知的主体が […] 意味的所識の帰属者たる限りで「能識的或者」と呼ぶことにしたいのである」148

つまり、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関していると考えている。四肢の関係をこのように理解する限り、廣松ならば、二つの解釈のうちの、前者が正しいというだろうと考える

次に、廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい。

18 四肢構造と二重問答関係(1) (20200620)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

廣松渉(1933.8.11~1994.5.22)は、戦後日本のもっとも卓越した哲学者である。あるいは明治以後のもっとも卓越した哲学者だと言えるかもしれない。彼は、出世作『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房,1975年)において四肢構造論を展開している。彼の哲学全体は、主著『存在と意味 事的世界観の定礎』の三巻で計画されていた。

第一巻「認識的世界の存在構造」

第二巻「実践的世界の存在構造」

第三巻「文化的世界の存在構造」

残念なことに出版されたのは、第一巻と第二巻の第二編までであり、病気のために、第二巻第三篇と第三巻は出版されなかった。

廣松は、従来の「物的世界像」に対して「事的世界観」を主張した。物的世界像の「実体主義」に対して、「関係の一次性」という用語で関係主義的存在観を主張した。実体が自存して第二次的に関係し合うのではなく、関係こそが第一次的存在であるという主張である。この関係の基本となるのが、四肢構造である。

『存在と意味』の第一巻では、認識の場面での四肢構造が説明され、第二巻では行為の場面での四肢構造が説明されている。まずは、第一巻の認識の四肢構造を紹介したい。

#認識の四肢構造

 第一巻では、「認知的に展らける世界現相」(xvii)の存在構造を扱う。

認知的に展らける「現相的世界」は四肢構造をもつとされる。認識の対象の二肢性と主体の二肢性である。

#認識の対象の二肢性

 認識は、「として」構造をもち、ある対象を「より以上の或るもの」として捉えることである。認識は、対象=「現相的所与」を「より以上のもの」=「意味的所識」として認識する、という二肢性を持つ。

 AをBとして認識する時、Aは所与とされるが、しかしAも実はすでに二肢構造を持っている。二肢構造を持つAが.Bとの関係において所与となるのである。

 たとえば、私が、コンビニにあるケーキをクリスマスケーキとして認知するとき、コンビニにあるケーキは所与であり、それ(現相的所与)を「クリスマスケーキ」(意味的所識)として認知するのであるが、しかしコンビニにあるその対象を「ケーキ」として認知する時に、すでに二肢構造が成立している。それは、「白いもの」を「ケーキ」として認知することかもしれない。そしてその白いものもまた、対象を「白いもの」として認知するという二肢構造をもつ。認知は、常に、何かを何かとして捉えるという二肢構造において成立するので、裸の対象があるのではない。所知は、所知―所識関係の項として成立する。所知であるものをこの関係から取り出して、対象化したときには、それはすでにあるもの「として」捉えられており、二肢構造をもつ。(この議論は、アリストテレスの「第一質料」に始まる。)

 このような対象の側の「として」構造は、解釈学や現象学で指摘されていたことであり、新しい指摘ではない。廣松の新しさは、認識の主体の側にも二肢性を指摘したこと、そしてその二つの二肢性が相関していることを指摘したことにある。

#認識の主体の二肢性

認識において、主体もまた「より以上の或るもの」として認識する。その二肢性は、一般的には、「能知的誰某」がそれ以上の「能識的或者」として認識するといわれる(『廣松渉著作集』第15巻136)。

コンビニのケーキを見て、クリスマスケーキとして認知するのは、現代の日本に生活する人間としてであり、だれでもそう認知できるのではない。

レントゲン写真の影を見て、肺がんがあると認知できるのは、訓練を受けた医者としてであり、だれでもそう認知できるのではない。

人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する。

#認識の共同主観性

 牛を見て、「ワンワン」という子供がいるとしよう。大人は、その子供が、牛を犬だとおもっていると理解する。この理解は、次のようにして可能である。

その大人は、その子供「として」、その牛を、犬「として」見る。

ここでは、大人は、その子供の視座から牛を見ている。廣松は、これを「視座照応的」(『廣松渉著作集』第15巻146)、と呼び、照応関係の一種とみている。このような照応関係によって、共同主観性が成立する。

「両人は人称的能知主体としては別々でありながら、一個同一の「所識」を共帰属せしめている者としては同一の能知的主体である。」(『廣松渉著作集』第15巻147)。

「意味的所識」は自分にとってだけでなく他人たちにとっても存立するという間主観性、共同主観的同一性の故に、単なる自分一人の私念ではないこと、この間主観的妥当性によっても存立性をもつ。」(『廣松渉著作集』第15巻197)。

この一人称的主体以上の或者は、意味的所識が、共同主観的に同型化している限りで「共同主観的な或者」である。

能知は、「人称的誰某」以上の「共同主観的或者」である。(198)

「われわれは[…]「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当するという二つのレアール・イデアルールな二肢的成態の連関、都合、四肢的な構造的連関態を挙示する。そして、この四肢的構制態をわれわれは「事」と呼ぶ」

(199)

(以上の四肢構造論の紹介の大部分は、2018年の秋冬学期講義「問答の観点からの哲学」第12回(20190111)からの転載である。

https://irieyukio.net/KOUGI/tokusyu/2018WS/2018ws12Hiromatsu.pdf )

 次に、この認識の四肢構造を二重問答関係の観点から分析しよう。

17 理論的問いは、実践的問いの上位の問いになりうる? (20200618)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 実践的な問いに答える推論の前提は、意図表現の命題であるか、因果関係を記述する真理値を持つ命題である。それゆえに、意図表現の命題は、実践的な問いの答えとして与えられうる、また因果関係を記述する真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えとして与えられうる。したがって、実践的な問いの下位の問いは、実践的な問いであるか、理論的問いであるかのどちらかである。

 これに対して、理論的な問いに答える推論の前提は、すべて真理値を持つ命題になる。真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えであって、実践的命題の答えではない。それゆえに、理論的な問いに答える推論の前提を実践的問いによって得ることはできない。つまり、実践的な問いの上位の問いが理論的な問いであることはない。

 それでは、前回の反例をどう考えればよいのだろうか?

前回の反例:「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがある。

厳密に言うならば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために立てる最初の実践的な問いは、「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」という問いである。その答えとして「この木の実を割って中を見ればよい」が得られ、それに基づいて「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的問いを立てることになる。これは次のような問答の流れになるだろう。

「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」(理論的問い)

「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」

「この木の実を割ればよい」

「この木の実を割るにはどうしたらよいのだろうか」

「木づちで叩こう」

「木の実の内部は二つに分かれている」

 私たちは、すべての理論的問いについて、「この問いの答えを知るにはどうしたらよいのだろうか」という問いを立てることができるが、この問いは実践的な問いであろう。なぜなら、この問いは、「…するためには、どうすればよいのか」という形式を持っており、この形式の問いは実践的問いだからである。この問いに答えるためには、実践的推論が必要である。

 この問いの答えが命令や指令だとすると、厳密に言えば、それは真理値を持たないが、しかし正誤はありうるだろう。例えば「うまく卵焼きを焼くにはどうしたらよいのだろうか」という問いの答えを実行して、卵焼きをうまく作れたら、その答えは正しく、うまく作れなければ、答えは正しくないと言える。この問いの答えが「よくかき混ぜるべし」という指令であるなら、この答えは真理値を持たない。もしこの問いの答えが、条件文「うまく卵焼きを焼くには、よくかき混ぜればよい」だとしても、後件が指令であるので、やはり真理値を持たない。

 反例についての考察をまとめよう。「この木の実を割るにはどうすればよいのだろうか?」という実践的な問いのより上位の問いが、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いであるとすると、実践的ない問いのより上位の問いは、実践的な問いである。しかし、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのさらにより上位の問いは、理論的な問いである。したがって、実践的な問いのより上位の問いが、理論的な問いである場合が存在することになる。

 Q1「問いQ2の答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのより上位の問いは、問いQ2であるとしよう。この問いQ2は、理論的な問いである場合と実践的な問いである場合がある。ここではさしあたり、この問いQ2が理論的な問いであるとしよう。このQ1の答えをA1、Q2の答えA2とするとき、ここでは、Q2→Q1→A1→A2という二重問答関係は成立していない。なぜなら、ここでのQ1の答えA1は行為の指令であるので、理論的な問いQ2に答える推論の前提にはなりえないからである。

(ちなみに、このことは、Q2が実践的な問いであるときも同様である。Q2が「どうやって肉じゃがを作ればよいのか?」という実践的問いであるとするとき、Q1は「Q2の答えを知るにはどうすればよいのか?」となり、その答えA1が、たとえば「ググればよいのです」であるとき、A1は、A2を導出するときの前提にはならない。)

 ここではQ2→Q1→A1→A2という二重問答関係が成立しておらず、A1からA2に至る過程が単純な推論ではなく、すこし複雑な過程になる。例えば、その一つの場合は、A1からA2にたどり着くには、A1の指令を実行して、その結果から得られた命題がA2であるという場合である。Q2→Q1→A1(指令)→指令の実行→実行の結果→A2、というような流れになるだろう。

 次回からは、「二重問答関係」と、廣松渉のいう「四肢構造」の関係を分析しよう。

16 二重問答関係とは? (20200617)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 <推論は問いに答えるプロセスである>というのが、問答推論主義の出発点である。そして、推論は、問いと答えの関係の一種である。しかし、問いの答えを得るときに、常に推論を用いるわけではない。例えば、「それは何色ですか?」に対して「これは赤色です」と知覚判断で答えるとき、推論を用いていない(知覚もまた推論であるという主張については、後に考察したい)。また「何を食べますか?」に対して意思決定によって「うどんにします」と答えるときにも、推論をしていない。「なぜうどんにするのですか?」と問われて、例えば「なんとなくです」と答えるとき、少なくとも意識的には推論によって「うどんにします」と答えたのではないことが明らかだ。このように、問に対して、推論で答えるときもあれば、推論以外で答えることもある。

 ところで、問に推論で答える場合であれ、その他の仕方で答える場合であれ、どちらの場合であっても、問うときには、常にとは言わないまでも大抵の場合、より上位の目的がある。より上位の目的は、問いとして理解できるだろう。つまり、大抵の場合、問いは、より上位の問いを解くために立てられる。ここにつぎのような「二重問答関係」が成立する。

  Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1が立てられ、Q1の答えA1が得られて、A1を前提にして、そこから、Q2の答えA2が得られる>という関係を示している。

 二重問答関係には、いろいろなものがある。

 ここで、問いを、真理値を持つ命題を答えとする理論的な問いと、真理値を持たない命題を答えとする実践的な問いに区別することにしよう。理論的な問いは、より上位の理論的な問いを解くために立てられる場合と、実践的な問いを解くために立てられる場合がある。これに対して、実践的な問いは、より上位の実践的な問いを解くために立てられるが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない。

 これまで、このように<実践的な問いが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない>と論じたことが何度かあるが、果たしてそうだろうか。例えば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがあるのではないだろうか。

 これを検討しておきたい。

06 #前回の再検討 (20200614)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

 前回は、すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうと考えて、例えば、次のように説明した。

①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである

ここでの「義務」は法的なものである。ゆえに精確にいうと、次のようになる。

①<Aする法的権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がないことである。

前回の②も同様に精確に言い直すと次のようになる。

②<Aする法的義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。

この①と②が成り立つとするとき、法的な権利・義務一般を、問答に関する法的な権利・義務に還元できるのだろうか?

①によって、<Aする法的権利がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的権利がある。┣ 誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がない

②によって、<Aする法的義務がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的義務がある。┣ Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない。

これらの下流推論はこれらだけはないだろう。それゆえに、権利や義務一般を、この下流推論を用いた言い換えに還元できないだろう。なぜなら、pの下流推論がp┣rとp┣sの二つあるとするとき、s┣rとなるとはかぎらない。つまり、sをrをもちいて言い換えられるとは限らない。したがって、rという表現を導入したとしても、pという表現が不要になるわけではないからである。

物に対する権利は、行為に対する権利に還元できるだろう。このカテゴリーでは、行為に対する権利をさらに、問答に関する権利・義務に還元できなるのではないかと探求している。その発想の根っこは、権利関係が、言語的コミュニケーションによって構成され調整されているのだとすれば、それを分析すれば最終的には問答に関する権利・義務になるだろう、という予測にある。もしこの還元ができないのだとすると、その原因・理由を明確にすることによって、権利関係についての認識が深まるだろう。

 次回は、アプローチを変えて取り組むことにしたい。

10 太陽光はなぜ無色透明なのか (20200611)

[カテゴリー:日々是哲学]

「太陽光は、なぜ無色透明なのだろうか?」

 恒星が無数にあり様々な色をしている中で、私たちの太陽系の光がたまたま無色透明であった、ということは考えられないだろう。つまり、どの恒星の知的生物も、その恒星の光を無色透明と感じるのではないかと思われる。

原因1:すぐに思いつく答えは、サングラスを長時間していると、それが普通になって、青色であること忘れているのとどうように、太陽光も小さい頃からずっとその光のもとでものを見ているので、それが普通になって、色を感じないのである。

原因2:(この原因2は、原因1と両立するだろう。)人間の視神経は、太陽の光のもとで発生し進化してきた動物の視神経の進化の産物である。動物の視神経は、太陽光によって身体の周りの状態を認識するためにより適切なものへと進化してきた。そのときに、太陽光を無色透明と感じることが最も適切なのではないだろうか。なぜなら、もし太陽光を無色透明と感じないとすると、太陽光のもとで、認識が妨げられる対象が存在することになるように思われるからである(この点は、もうすこし詳細な論証が必要だろう)。そのような視神経は、生存のための適切性に関して劣る。このことは、人間だけではなく、他の動物の視覚についても同様であろう。

 この原因2の方は、もっと複雑な議論が必要になるだろう。人間は三色型色覚であるのに対して、二色型色覚(犬)、四色型色覚(鳥)の動物などは、その方が生存に有利だったのだろうとおもわれる。犬にとって、太陽光が無色透明なのかどうかわからない。人間にとっては、三色合わさって無色透明になるのかもしれないが、犬にとっては二色合わさって無色透明になるのかもしれない。これはクオリアの問題なので、物理学では決着のつかない問題かもしれない。というわけで、太陽は何故無色透明なのか、に答えるには、原因1と原因2だけでなく、クオリアの問題も考えなければならない。

このことは、視覚だけでなく、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、についても同様であろう。

 「空気はなぜ無臭なのか?」

 「唾液はなぜ無味なのか?」

これらの問いに、色の場合と同じように答えることができるだろう。