[カテゴリー:問答の観点からの権利論]
#法とは何か?
法は、共同体に自己同一性を与え維持する統制的ルールであり、道徳は、個人に自己同一性を与え維持する統制的ルールである。共同体が、組織とルール(法)からなるとすると、個人は、身体(行為)と言葉(道徳)からなる。(この法と道徳の区別については、どこか別のところで、詳しく説明することにしたいと思います。)
<法は、社会の変化に合わせて変える必要がある>この変更は、法を設定したときのより上位の目的を実現するために行われる。では、そのより上位の目的は何だろうか。それは共同体や社会を維持すること、よりよい状態にすること(言い換えると、社会問題を解決すること)であろう。たとえば、コロナウィルスの感染を抑える(つまり、ある社会問題を解決する)ために、新法を作ったり、古い法を改正したりする。
#法は、二種類ある。
法には、国民の権利や義務を規定する法がある。例えば、「他人の所有物を盗んではならない」。これは、「何人もその所有物を盗まれない権利を持つ」と言い換えられるだろう。これは行為を禁止する法である。例えば、「国民は、税金を納めなければならない」。これは「国民は、税金を納める義務を負う」と言い換えられるだろう。これは、行為を命じる法である。
法は、最終的には、個人や法人に行為を行うことないし行わないことを命令する(行為を命令するか禁止する)。しかし、全ての法が、直接的に行為を禁止したり命じたりするものではなく、間接的にそれを行うものもある。その場合、義務や禁止を、条件法「もし…ならば、…せよ(するな)」という形式で表現し、この条件法に従うことを命令する。ある役柄を引受けることを命じることは、条件法の束に従うことを命じることである。役柄は条件づけられた役割の束であり、役割は条件づけられた行為の束である。
例えば、日本国憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」これは、「天皇」とされる個人に、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として行為することを義務付ける、あるいは「象徴」として行為する権利を与える。そして、国民にその人を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として扱うことを義務付ける。ただし、この条文ではどのように行為すべきかは明示されていない。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として行為が、どのようなものであるかは、他の条文や法律で規定されることになる。
#法と権利命題の推論関係:権利命題の上流推論と下流推論
*権利命題の下流推論
「この車は私のものである」(つまり「私はこの車の所有権を持つ」)
この発話が成り立つということから帰結するのは、例えば、「私はこの車を自由に処分できる」ということである。「この車を自由に処分できる」ということは、「なぜ、色をかえるのか」とか「なぜ、売るのか」とか問われたときに、理由を答える義務がないということである。
私はこの車の所有権を持つ┣私はこの車を自由に処分できる
これは「私はこの車の所有権を持つ」の下流推論である。
*権利命題の上流推論
これの上流推論は、例えば次のようなものである。
私は、この車を販売店で買った┣私はこの車の所有権を持つ
この車の車検証には、所有者として私の名前が書かれている┣私はこの車の所有権を持つ
法と初期条件を前提とし、それから具体的な権利を記述する命題「私はこの車の所有権を持つ」が結論として帰結する、権利命題の上流推論がある。権利や義務を記述する文は、このように上流推論や下流推論を持つ。
より一般的に言うと、法と状況の記述を前提として、具体的な権利命題を、次のように推論できるだろう。
法、状況の記述┣権利命題 (権利命題の上流推論)
法と権利は、このような法的三段論法の推論関係にある。
この三段論法でも、前提から帰結する命題は、複数ある。その中から特定の権利命題が結論になるのは、問いに対する答えとしてである。
「この車はだれのものか?」
不動産を購入し、不動産の税金を支払っている者は、その所有者である。xさんは、5年前にこの車を購入し、毎年自動車税を支払っている。┣この車は、xさんのものである。
この二つの前提からは、(気の利いた例ではないが)「この車は、6年前にはxさんのものではなかった」「もしxさんがこの車の自動車税を払っていないならば、この車の所有者ではない」なども、論理的に結論となりうる。その場合には、それぞれ、「この車がxさんの者でなかったのは、いつのことか」、「もしxさんが自動車税を支払っていなかったとしても、この車はxさんのものか?」などの問いに対する答えになるだろ。