[カテゴリー:問答の観点からの権利論]
前回は、すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうと考えて、例えば、次のように説明した。
①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである。
ここでの「義務」は法的なものである。ゆえに精確にいうと、次のようになる。
①<Aする法的権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がないことである。
前回の②も同様に精確に言い直すと次のようになる。
②<Aする法的義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。
この①と②が成り立つとするとき、法的な権利・義務一般を、問答に関する法的な権利・義務に還元できるのだろうか?
①によって、<Aする法的権利がある>の下流推論が明示されている。
Aする法的権利がある。┣ 誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がない。
②によって、<Aする法的義務がある>の下流推論が明示されている。
Aする法的義務がある。┣ Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない。
これらの下流推論はこれらだけはないだろう。それゆえに、権利や義務一般を、この下流推論を用いた言い換えに還元できないだろう。なぜなら、pの下流推論がp┣rとp┣sの二つあるとするとき、s┣rとなるとはかぎらない。つまり、sをrをもちいて言い換えられるとは限らない。したがって、rという表現を導入したとしても、pという表現が不要になるわけではないからである。
物に対する権利は、行為に対する権利に還元できるだろう。このカテゴリーでは、行為に対する権利をさらに、問答に関する権利・義務に還元できなるのではないかと探求している。その発想の根っこは、権利関係が、言語的コミュニケーションによって構成され調整されているのだとすれば、それを分析すれば最終的には問答に関する権利・義務になるだろう、という予測にある。もしこの還元ができないのだとすると、その原因・理由を明確にすることによって、権利関係についての認識が深まるだろう。
次回は、アプローチを変えて取り組むことにしたい。