[カテゴリー:問答と懐疑]
・疑いと懐疑主義の区別
前に述べたように、「疑う」とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うことだとおもいます。これは、日常生活でも頻繁に行っていることです。例えば、刑事ドラマを見るとき、私達は、登場人物をすべてについて、犯人かもしれないと疑ってみるとおもいます。このような疑いは、懐疑主義や懐疑論とは異なります。懐疑主義とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うだけでなく、また、その問いに肯定的に答えられないと主張すること、あるいは否定的な答えの可能性が高いと考えることだけでもなく(ここまでならば、日常的な〈疑い〉に見られることである)、かなり十分に考えて、他者にその判断や態度を正当化する用意をもって、そのような否定的な判断ないし態度をとることである。例えば、自由意志についての懐疑主義とは、自由意志を疑ってみるだけでなく、自由意志の存在の主張を否定し、自由意識の非存在をかなりの程度正当化する用意をもっていることである。
・懐疑主義の様々な区別
このような懐疑主義には、主張に関するもの、態度に関するもの、方法に関するものの区別があり、また、主張と態度に関するものについては、ローカルなものと全面的なものの区別があることを前回説明した。
懐疑主義には、これらの区別に加えて、その正当化の仕方に関する区別がある。
一つは、ある命題の真理性や適切性についての問いに、肯定的に答えようとすると、矛盾が生じることを示すことによって懐疑を正当化することである。
第二のものは、ある主張が真である可能性を示し、もしその主張が真ならば、当初の問題になっている命題の真理性や適切性が成立しないことを示す方法である。
第三のものは、問題の命題の正当化が不可能であることを示す方法である。古代の懐疑主義の方法がこれである。これの現代的なバージョンが、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けられた論証である。H・アルバートは、ある主張の根拠の根拠の根拠の・・・とさかのぼってゆけば、①無限に遡行する、②最終的に根拠づけが循環する、③根拠付けがストップする、という3つのパターンしかないことを示し、そのいずれの場合にも、最初の主張は根拠付けられないことを指摘した。彼はこれを「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けた。(ミュンヒハウゼンとは「ホラ吹き男爵」のことであり、川に落ちたと時に、自分の髪の毛を掴んで岸に持ち上げたというホラにちなんで用いられた。)アルバートは、これによって、どのような主張も、究極的に根拠付けることはできないことを論証した。つまり、いわゆる「絶対的な知」などは存在しないことを論証した。