10 ミュンヒハウゼンのトリレンマから全面的懐疑主義へ?  (20200804)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 ミュンヒハウゼンのトリレンマによる懐疑主義の論証は、次のようなものだった。

<主張の根拠について「なぜ」と問い、その答えである主張についてさらに「なぜ」と問うことを繰り返すと、無限に反復するか、どこかで循環するか、どこかでストップするという3種類しかなく、どれであっても最初の主張の正当かはできないので、どのような主張であってもそれの究極的な正当化はできない>

 この論証から帰結する主張は、「どのような主張も究極的に根拠づけることはできない」である。

これに対しては次のような反論が可能である。

 反論1:この主張は、自己矛盾する。

 反論2:この論証は、次のトリレンマ(推論規則の一つ)が正しいことを前提している。

       p1ならばqである。

        p2ならばqである。

       p1ないしp2ないしp3である。  

       ∴qである。

  ゆえに、この論証は自己矛盾している。(ただし、この推論規則の妥当性について、「なぜ、なぜ」と問い続けると、トリレンマに陥る。)

 反論3:この論証において、「なぜ、その主張ができるのか」「その主張の根拠は何か?」という問いを反復するが、この問いは、前提(蝶番)をもつ。それは、

   「すべての主張は、それが主張であるためには、何らかの根拠を持たねばならない」

という命題である。これは、西洋哲学の伝統では「根拠律」と呼ばれてきたものである。この根拠律についても、私たちは「なぜ根拠律は正しいのか?」と問うことができる。この問いに対して、私たちは、どう答えることができるだろうか? この問いは、「根拠律もまた何らかの根拠をもつ」という命題を蝶番としているように見える。

 このように全面的懐疑主義を吟味しようとするといたるところに自己矛盾や循環論証が現れる。ただし、循環論証は、論証の失敗ではあっても、そこから主張の間違いを導出することはできないものである。自己矛盾は、通常の主張の正当化の場合には、そこで間違いを認めざるを得ないものなのだが、懐疑主義の場合には、全てのことを疑うので、矛盾していても、その立場を保持することが(考え方によっては)可能である(おそらくナーガールジュナ(龍樹)ならば、自己矛盾が現れてもまったく気にしないだろう)。

 全面的な懐疑主義は、両刃の刃なのだが、宗教など、絶対的な真理を主張する人に対しては、有効である。また、自文化中心主義の人たちに対しては有効である。

 ということで、次にローカルな懐疑主義、特定の主張に関する懐疑主義を検討しよう。