[カテゴリー:問答と懐疑]
主張pについて「なぜpなのか?」と主張の根拠を問い、さらにその答えについても「なぜ」と根拠を問うことを繰り返すことができる。そうするとトリレンマに陥る。このとき、¬pの主張に関しても同様に、その根拠を問うことができるので、トリレンマに陥る。したがって、ある主張pがある時、私たちは「p」も「¬p」も主張できない。こうして、主張pに関する懐疑主義が帰結するだろう。
ミュンヒハウゼンのトリレンマをもってしても、全面的な懐疑主義を論証することが難しいことは前に見たとおりだが、個別の主張についての懐疑主義ならば、可能である。ミュンヒハウゼンのトリレンマが、トリレンマという論理規則の妥当性を前提すること、「なぜpと主張するのか?」という問いが「主張は根拠を持つ」という根拠律を前提すること、を指摘して、この論証を批判するとしても、この論証を個別の主張や特定領域の主張についての懐疑主義に限るならば、その批判は当てはまらない。
ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いた議論で論証できるのは、ある主張を「究極的に根拠づけること」(die letzte Begruendung)あるいは絶対的に根拠づけることはできない、ということである。
ローカルな懐疑主義には、もう少し弱い主張に対する懐疑主義もあるし、むしろこちらの懐疑主義について語られることの方がおおいかもしれない。山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』において哲学的懐疑の典型例として
(1)「外的世界」
(2)「他人の心」
(3)「過去の実在」
を上げており、次にこれらについて考えてみよう。