05 人が問うのはどのような場合か?(1) (20201007)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(動物が、意識や表象を持つのかどうか、という問題、動物の探索と人間の問いの比較、については、奈良に戻ってNoeの本を検討してからにして、別の論点を議論したいと思います。)

 人が問うのはどのような場合だろうか。一つは、より上位の問いに答えるために、問いを立てる場合である。問いを理論的な問いと実践的な問いに区別すると、次のような4つの場合を想定できる。

①理論的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

②実践的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

③理論的な問いに答えるために実践的な問いを立てる。

④実践的な問いに答えるために実践的な問いを立てる

この③が存在するかどうかについて、カテゴリー「問答推論主義に向けて」の「16」「17」で論じ、③は存在すると論じたが、少し疑念が残るので、③についてはそのカテゴリーで改めて議論することにし、ここでは①②④を想定しておきたい。

このようにより上位の問いに答えるために問うのだとすると、そのまた上位の問いへと無限にさかのぼることになり、説明が閉じない(上位の問いが、明示化されておらず、暗黙的である場合もあるだろうが、その場合でもその暗黙的な問いはどのように発生するのか、を問う必要がある)。

 では、上位-下位の問いの系列の最初の問いは、どのように生じるのだろうか。 問いの発生については、「意図と現実の矛盾」から生じると論じたことがある(拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM)。そこでは次のように述べた。

 「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」

 これについて、次に考えたい。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「05 人が問うのはどのような場合か?(1) (20201007)」への1件のフィードバック

  1. 進むのが遅くてすみません。私の本の校正がようやく終わりました。昨日は、ハーバーマスの『真理と正当化』を読んでいて発見がありました。いずれ報告します。

     

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