07 理論的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201018)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回述べたように、問いを理論的問いと実践的問いに区別し、問いが発生するのは、<願望/意図と現実が葛藤する場合>だとしよう。このとき、実践的問いが、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることは、わかりやすいだろう。理論的問いについては、わかりにくいかもしれない。理論的な問いについても、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることについては、つぎのように説明できるだろう。

 科学研究において、理論と観察命題が矛盾したりする場合(つまり、理論に基づく予測と実験結果や観察報告が矛盾する場合)に、理論的問いが設定されることになるだろう。そこには二つの事実命題の矛盾という現実がある。しかし、このような矛盾があるだけでは、問いが発生するには、不十分である。それとともに、整合的な認識を得たいという意図が研究者になければならない。その証拠に、金言や格言には矛盾したものが沢山あるが、人々はそれらの矛盾をふつう問題にしないからである。つまり、矛盾する命題があるというだけで直ちに問いが発生するわけではない。<事実命題の矛盾という現実>と<整合的な認識を得えたいという意図>の葛藤があるときに、理論的な問いが発生する。(参照、拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM

ところで、理論的な問いを生じさせる<願望/意図と現実の葛藤>という時の<現実>は、次のように3つに分類できるだろう。

(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合。上の段落で述べた、理論と観察命題の矛盾する場合は、この場合に属する。

(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合。

(3)ある事柄について無知である場合、などである。

これらは、それぞれ次の意図との間で葛藤を生じさせる。(a)整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得ようとする意図、(b)確実で真なる認識を得ようとする意図、(c)ある事柄について知ろうとする意図、である。

これらの3つは、「人はなぜ理論的問いを問うのか?」という問いに対する答えとなりうるだろう。他方で、これとは違った仕方で、次のようにこの問いに答えることもできる。

 理論的問いを問うことは、行為一般と同様に、目的をもつ。その目的は、より上位の問いに答えることである。理論的な問いは、(ア)別の理論的問いに答えるために問われる場合と、(イ)実践的問いに答えるために問われる場合がある。

では、この(ア)(イ)の区別と、(1)(2)(3)の区別は、どう関係するだろうか。

(ア)では、ある理論的な問いQ1に答えるために、別の理論的な問いQ2の答えが必要であるとしよう。そして、Q2の答えがわからないとしよう。このとき、私たちがQ2を問うのは、Q1に答えるためにQ2の答えを知りたいという願望ないし意図のためである。これは、上の(3)のケースになるだろう。

(イ)では、ある実践的な問いQ3に答えるために、理論的な問いQ4の答えが必要であるとしよう。例えば「どうすれば早くパンをつくれるだろうか?」という問いに答えるために、「イーストの発酵に適した温度は何度か?」を知る必要があるとしよう。このとき、Q4を問うのは、Q3に答えるためにQ3の答えを知りたいという願望ないし意図である。これもまた上の(3)のケースになるだろう。

 では、上の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。