[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」
前回の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。
まず(1)について。<(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合>に、この現実は、「整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得よう」という意図と衝突するだろう。例えば、pと¬pのそれぞれに根拠があるとしよう。このとき、どちらが正しいのかを問う必要があるとすれば、それはどういう場合だろうか。
一つは、「pか¬pか」に答えることによって、より上位の問いに答えようとする場合である。
たとえば、「p┣r」と「¬p┣s」が成り立ち、「rであるか、sであるか?」という問いQ2に答えることが必要である場合、「pであるか、¬p」であるか」という問いQ1に答えることによって、Q2に答えようとする。この場合には、より上位の問いQ2は、理論的問いである。
しかし、「p、Γ┣r」と「¬p、⊿┣s」が成り立つ場合(Γと⊿は、文の集合)には、pが真理値を持つ命題であっても、rが真理値を持つ命題であるとは限らない。例えば、Γが「p→r」、⊿が「¬p→s」であり、rとsがともに真理値を持たない実践的命題である場合もありうるだろう。この場合には、Q2は実践的な問いになる。つまり、(1)については、より上位の問いは、(ア)理論的問いである場合も、(イ)実践的問いである場合もある。
次に(2)について。<(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合>には、この現実は「確実で真なる認識を得ようとする意図」と矛盾する。この場合にも、それの答えである理論的命題を前提して、より上位の理論的問いに答えようとする場合と、より上位の実践的問いに答えようとする場合がありうるだろう。
以上を踏まえると、(1)(2)(3)のそれぞれに、(ア)と(イ)の両方がありうることが分かる。
次に、実践的問いを問うのはどのような場合か、を考えよう。