36 これまでの振り返り (20210208)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回の最後に引用した、バレットの「構成主義的情動理論」の説明を再度引用しょう。

「構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体予算管理領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動経験になる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調節して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。かくして、脳と身体によって社会的現実が生み出され、情動が現実のものになるのだ。」前掲訳252

これの最初の文「構成主義的情動理論は、顔、身体、脳に一貫した生物学的指標を持たずに、どのように情動を経験したり知覚したりできるのかを説明する。」は、情動を、顔、身体、脳における生物学的指標のイメージとして捉える伝統的理論への批判である。ダマシオの情動理論もまたこの伝統的理論に属するだろう。ダマシオによれば、「情働は、一つのパターンを形成する一連の複雑な化学的、神経的反応」(ダマシオ『意識と自己』田中三彦訳72)であり、「情動は生物学的に決定されたプロセスであり、…生得的にセットされた脳の諸装置に依存している」(同訳72f)とされていた。

以前にも述べたが、これに対してバレットの「構成主義的情動論」は、次の三つの構成主義の流派を取り入れている。「社会構成主義」からは文化と概念の重要性を、「心理構成主義」からは情動が脳や身体の内部の中核システムによって構築されるとする考えを、そして「神経構成主義」からは経験によって脳が配線されるという考えを取り入れている(バレット前掲訳70)。

前回は、情動が社会的現実であり、社会的に構築されているという主張を紹介したが、このこと自体は社会構成(構築)主義からすれば新しい指摘ではない。バレットの新しい点は、「心理構成主義」「神経構成主義」を情動の説明に取り入れたことにある。

それの簡単な説明が、上記の引用の第二の文とそれに続く次の部分である。

「脳はつねに身体内外から受け取る感覚入力を予測し、シミュレートしている。だからそれが何を意味し、それに対して何をすればよいかを理解できるのだ。予測は皮質を伝わり、内受容ネットワークの身体予算管理領域から一次感覚皮質へと流れ、脳全体に分散されたシミュレーション(そのそれぞれが概念のインスタンスである)を生む。そして目下の状況にもっとも近似するシミュレーションが勝ち、それが経験になる。また勝利したシミュレーションが情動概念のインスタンスであった場合、この経験は情動経験になる。これら全過程がコントロールネットワークの支援のもとで生じ、身体予算を調節して生存と健康を維持する。その過程で、無事に生き残って自己の遺伝子を次世代に伝えられるよう、周囲の人々の身体予算に影響を与える。」

私の関心は問答関係にあるので、ここでの予測とシミュレーションのプロセスを探索と発見のプロセスとして捉えることである。もちろんこれは、無意識的な探索と発見であり、また機械的なプロセスに観察者が投影しているだけの「見かけ上の探索と発見」である可能性もあるが、神経プロセスの中に「見かけ上の探索と発見」を見つけられるとしたらそのこと自体が興味深いことである。

無意識的な探索と発見は、言語による問答の先行形態であるだろうが、情動の考察以前に確認したことは、それが動物の走性や無条件反射にもみられるということであった。今回は、それを人間の脳の神経プロセスに見ることができる(あるいは、できそうだ)ということがわかった。

問題は、人間以外の動物における、また人間の神経プロセスにおける、この無為意識的なあるいは見かけ上の探索発見が、どのようにして意識的な探索発見になるのか、と言うことである。

この問題へのアプローチする方法には、ボトムアップとトップダウンの二方向があるだろう。