41 クオリアとニューロンパターンの関係 (20210216)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(前回のべた「固有時」における同時性や時間経過については、改めて論じなおしたいと思いますが、とりあえず茂木のクオリア論の紹介と検討に移りたいとおもいます。)

「クオリア」は、わかりやすく言うと、意識内容の質感です(典型的には感覚の質感です)。これの説明は、チャルマーズらによって、「心の哲学」における最難問だと言われています。この問題は、茂木の『脳とクオリア』の中心課題だと言ってよいでしょう。茂木は、序章で「「《「クオリア」を神経細胞の活動から説明することが、心と脳の問題の核心である》」(同書25)と述べています。茂木は、第5章「最大の謎「クオリア」」でクオリアについて論じています。

 彼は、まず「クオリア」について次の二つの定義を与えます。

「《クオリアの内観的定義=クオリアは、私たちの感覚のもつ、シンボルでは表すことのできない、ある原始的な質感である。》」(同書147)

「《クオリアの情報処理の側面から定義=クオリアは、脳の中でおこなわれている情報処理の本質的な特性を表す概念である。》」(同書148)

(これらのクオリアの後者の定義は、残念ながら曖昧です。厳密に言えば、これは、クオリアについての一つの記述であって、定義ではありません。例えば、「AはBである」が定義となるためには、これが主語述語文ではなくて、同一性文でなければなりません。あるいは、AとBが同値でなければなりません。しかし、脳の中でおこなわれている情報処理の本質的な特性を表す概念は、「クオリア」だけではありません。たとえば「ニューロン発火」や「電気化学的反応」や(彼が後に述べる「統合された並列性」についても、この記述は、あてはまります。他の例をあげると、「リンゴは、バラ科の高木である」というのは、もしリンゴ以外にも、バラ科の高木があれば、定義ではなく、リンゴについての一つの記述にすぎません。茂木のクオリアの定義は、そのような記述にとどまっています。)

クオリアの謎に科学的に迫ろうとすれば、後者の定義のクオリアを説明しなければならない。「情報処理の中の過程において、クオリアは、どのような本質的な役割を果たしているか」を考える必要がある。

 そこで、茂木は、「脳の情報処理の最大の特徴の一つ」である「並列性」(同書157)、しかも「統合された並列性」について説明します。例えば視覚情報と聴覚情報が同時に与えたときに、それらを統合できるのは、それらのクオリアを区別できるからである。

「《クオリアと並列性=私たちの心の中で複数の認識の要素が共存できるのは、それらが異なるクオリアを持っているからである。》」(同書160)

こうして茂木は、「統合された並列性」において、クオリアが本質的な役割をしていることを指摘します。

 茂木はまた、「現在性のクオリア」が情報処理過程において本質的な役割を果たしていることを指摘します。現在の認識の要素と過去の記憶を区別できるのは、現在の認識の要素が鮮明なクオリアを持っているからです。また、外にあるバラを見ているときのバラの質感の圧倒的な鮮明さと、バラを心の中で思い浮かべているときの質感は異なります。茂木はこれを「現在性のクオリア」とよび、これによって、自己の「外」と「内」、現在の要素と記憶の要素を区別できるといいます。

ところで、クオリアとニューロンの発火のパターンとの関係について、次のようにいう。

「《クオリア=認識の要素を構成する相互作用連結なニューロンの発火のパターン》」(同書169)

「認識要素がもつクオリアは、…発火のパターンによって決定される、というよりは、この発火のパターンそのものなのである。」(同書170)

これらの引用箇所は、茂木がクオリアとニューロン発火のパターンの同一説(これは茂木の表現ではありません)を主張しているように読めます。

しかし、彼は次の節では次のように言います。

「《クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火のパターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する》」(同書171)

この「対応」関係は、次のように「随伴」関係として説明されています。

「もし、クオリアが一定の条件の下に神経回路網という物質の振る舞いに随伴して生じるものであるとすれば、そのような可能性は、従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則の領域の存在を示唆するのである。」(同書172) (強調と下線は引用者)

発火のパターンからクオリアが随伴するのは、「従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則」(同書172)によってであると言われています。

先の同一性の主張と、ここでの随伴説の主張は、矛盾するように見えます。これをどう考えたらよいでしょうか。