34「情動概念」はどのように作られるのか? (20210204)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 バレットの情動論に戻ります。バレットは、情動には、3つの要素(内受容、情動概念、社会的現実)が必要であると考えています(参照、バレット『情動はこうしてつくられる』高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019、p. 417))

 最初の「内受容」については「31 内受容と内因性ネットワークから気分が生まれる (20210128)」で説明したので、次に「情動概念」についての彼女の説明を紹介します。これは同書の第5章と第6章で説明されています。

 脳内活動の内因性ネットワークが、脳は常に膨大な予測と予測エラーの訂正を行っているということを、ディープラニングプログラムを応用して分析するというAndy ClarkやJakob Hohwyの研究は、主として人間の認知活動の説明に向かっていたが、バレットの仕事の意義は、このアプローチを情動研究に拡張したということにありそうだ。

 バレットは、「内因性ネットワーク」が「内受容感覚」と結合するとき、感覚刺激は分類刺され予測されるようになるが、その分類に使用されるものが、情動概念(「幸福」「怖れ」「苛立ち」など)であると考える。

「本章(第5章)では、情動を自ら経験したり、他者の情動を知覚したりするたびに、人は概念を用いて分類し、内受容刺激や五感から意味を作り出していることを明らかにしていく。この考えは、構成的情動理論の主要なテーマをなす。」149

私たちは、情動概念によって情動を分類することによって、情動を構築しているのだが、しかしバレットによれば、私たちは、類似点を見つけて分類しているのではない、むしろ類似点を作り出しているのだ。情動概念は(おそらく情動語だけでなく、全ての概念も)合目的的概念である。(前掲訳、158)

バレットは、この感覚情報を分類する能力を統計的に学習する能力だと考えるが、それは人間だけに限られるのではないという。

「統計的に学習する能力をもつ動物は人間だけではない。人類以外の霊長類、イヌ、ラットなども、その能力をもつ。単細胞生物でさえ、統計学的学習や予測をおこなう。環境の変化に反応するだけでなく、それを予期するのだ。」164

しかし、

「純然たる心的概念を構築するためには、もう一つの隠れた構成要素が欠かせない。そう、言葉だ」166

「厳密に言えば、情動のインスタンスを構築するのに情動語は必要とされない。しかし、言葉を持つとそれが容易になる。効率的な概念を持ち、誰かに伝えたいのなら、言葉はとても有用である。」179

「情動概念を処理するシステムが貧弱な場合、心は情動を知覚できるのか?…答えは一般的に、「ノー」だと判明している」181

これらの引用からすると、情動概念をもつために言葉が必要であるのかどうか、曖昧であるが、少なくとも、犬は、情動概念を処理するシステムが貧弱であるので、情動を知覚できないことになる。

ところで、私たちは、認知だけでなく情動に関しても、感覚情報を情動概念で分類し、予測し、予測エラーを修正し、ということを繰り返すが、バレットによれば、概念と予測は、同一である(前掲書199)。これは、「概念」の意味の使用説と言ってもよいかもしれない。

たとえば、ある少女が持つ「ケヴィンおじさん」の概念は、ケヴィンおじさんに関する100ほどの予測にから成っているという。「ケヴィンおじさんは、あんな髪形をしている」「ケヴィンおじさんは、あんな歩き方をしている」「ケヴィンおじさんはあんな服は着ない」などなどである。

つまり、概念と予測は同一である。情動概念についても同様であり、たとえば、「幸福」という情動概念は、「幸福」に関する無数の予測と同一である。

バレットは、ここで「内受容ネットワーク」と(概念や予測の)「コントロールネットワーク」で、次のように情動現象を説明する。(この「コントロールネットワーク」は前に「内因性ネットワーク」と呼ばれていたものの一つの機能になるだろう。)

「内受容ネットワークは、…様々な概念の無数の競合するインスタンス(そのそれぞれが脳全体にわたる予測の連鎖をなす)を発行するだろう。その際コントロールネットワークは、脳がインスタンスを効率的に生成し、その中から勝者をえらべるように支援する。そして、特定のインスタンスの生成にニューロンを関与させることで、いくつかのインスタンスを存続させ、それ以外のインスタンスを抑制するよう導く。現状に最も即したインスタンスが生き残って知覚や行動を形作るという点でこの手法は、自然選択にも似る。」207

「情動の構築には、コントロールネットワークと内受容ネットワークが不可欠である。さらに言えば、この二つの核心的なネットワークは両者を合わせて、脳全体にわたる情報伝達に関与している主たる中枢のほとんどを生む。」208

このようにして、予測され構成される情動は、社会的なものであり、社会的現実を構成する。情動のこの第三の性質を次にみよう。

33 探索が意識されるのはどんなときか? (20210201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

バレットの情動論の説明に戻ると言いましたが、その前に前回のupの補足をさせてください。

前回の結論として、予測を意識するには、探索が意識的になっている必要があると述べました。ところで、「27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)」では、問いないし探索が意識される場合を、次のように説明していました。

「問いを意識するのはどのような場合だろうか。

①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。」

この「問い」を(広義の)「探索」に拡張すると、次のように言い換えられるでしょう。

①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②探索を意識するもう一つの場合は、探索しているものを発見できないので、その発見のために、別の探索をするときときである。このときこの「別の探索」を私たちは意識する。

ここでは、この①と②を再検討したいと思います。

まず①について気になるのは、<探索がうまくいかなくてそれを意識することは、行為がうまくいかなくてそれを意識するということの、特殊ケースである>という点です。むしろ、<行為の方こそが、探索の特殊ケースである>と思われるからです。

 探索するには、認知や、推論や、人に尋ねることなどの様々な方法があり、行為もまたその方法のひとつなのではないでしょうか。行為には目的がある。行為は、その目的をどうやって実現するかを探索することなのではないでしょうか。例えば、卵焼きをつくる時、どうやってうまく卵を焼くかを探索しているのではないでしょうか。

次に②について気になるのは、探索Aしているものを発見できないので、その発見のために探索Bをする、という場合、探索Aが意識的な場合と無意識的な場合を分けて考えた方がよいのではないだろうか、ということです。つまり、<もし探索Aが意識的なものであれば、探索Bも意識的なものになるだろう。ただし、もし探索Aが無意識的なものであれば、探索Bも無意識的なものになるのではないだろうか?>、ということです。

この点を検討するためには、(先ほど少し訂正した)①についても、もう一度検討する必要がありそうです。仮に「①探索を意識する一つの場合は、探索しているものを発見できないときである」を認めるとしても、しかし、逆に「無意識に探索しているものを発見できないときには、探索を意識することになる」と言えるかどうかは疑問です。つまりこれが常に成り立つとは言えないように思えるのである。

 私たちのこれまでの考察が正しいとすれば、人間を含めた生物の意識の発生のメカニズムを明らかにすることは、この①のメカニズムを明らかにすることにかかっているはずです。どう考えればよいが、考えあぐねています。

 そこでこの問題を気にしつつ、とりあえずバレットの情動の説明に戻ることにします。