40 問いと想像 (20210403)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

問いは「適合の方向」を持ちます。問うことが、他者に問うことであれば(つまり、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うことであれば)、命令や依頼と同様に、問うことは、相手に答えてもらうことを求めています。命令や依頼が、世界を心に適合させるという「適合の方向」をもつように、問うことは、相手に答えることを依頼するという意味で、世界(問いの相手の行動)を心(問いの内容)に適合させるという「適合の方向」をもちます。問うことが、独りで自問する事であっても、問いは、答えることを求めているのであり、世界(自分の行為)を心(自分の意図)に適合させるという「適合の方向」をもちます。

ところで、質問発話は、答えの発話がどのような発語内行為となるべきかを決定しています。

 つまり、問答関係はつぎのようになるのです。

   ?P → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

となるのではなく、次のようになるのです。

   ?┣p → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

(これについては『問答の言語哲学』第三章で説明しました。これが、「問いは答えの半製品である」の一つの意味です。)

これと同じで、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うこともまた、返答の発語内行為に伴う志向性(信じる、想起する、意図する、願望する、など)をすでに決定していると思われます。

例えば、「昨日の夜は何を食べましたか?」と問うことは、答えが記憶(想起)となることをすでに決定しています。(もちろん、相手に記憶能力が欠如しており、日記を見て答える必要があることを知っていて問う場合には、事情は異なります。)

さて、このような<問うこと>は<想像>とどう関係するでしょうか。<想像>を答えとするような問いはあるでしょうか。問いに答ええることは、何かコミットすることであり、コミットメントはつねに何らかの適合の方向を持つと言えそうです。そうすると、適合の方向を持たない<想像>は問いの答えにはなりえないことになります。

ところで、何が「想像」と呼べるかはあいまいだと言わざるをえません。

例えば、次の例は、想像なのか、そうでないのか、曖昧です。「サイコロの目が1になっているき、サイコロの下の面の数字はなにでしょうか?」という問いに答える時、両面を合わせて7になるはずなので、1の反対側は6である、と推論して、「6です」と答えるとき、これはおそらく想像ではないでしょう。サイコロが汚れているのを見て、「そこの6の面も汚れているだろう」と考えることもまた、推論しているのであって想像ではないでしょう。この二つの場合には、答えはどちらも「適合の方向」をもちます。

 次のものは、「想像」だと呼べると思われますが、「適合の方向」を持つものです。夜寒いとき、「明日の朝は霜がおりているだろう」と思い、霜に覆われた田んぼを想像するとき、その視覚的な想像は、「適合の方向」を持つでしょう。宝くじが当たって喜ぶことを想像するとき、それもまた「適合の方向」を持つでしょう。試験に受かることを想像するとき、大きな地震が来ることを想像すること、これらもまた「適合の方向」を持つでしょう。これらの適合の方向を持つ想像は、「明日の朝は霜が降りているだろうか?」という問いや、「宝くじにあたるだろうか?」という問いに対する可能な答えとして想像されていると言えるかもしれません。

では、適合の方向をもたない<想像>とはどのようなものでしょうか。サールは、<想像>をつぎのように説明しています。

「雨が降っているという想像は、雨が降っているという信念や、雨が降っていることへの願望とまったく同様に可能である。信念は下向きの適合方向を持ち、願望は上向きの適合方向をもつが、想像の場合、私はその内容が事実であると信じているわけでも、事実であって欲しいとのぞんでいるわけでもない。そうであってほしい事態を空想することはあるにしても、空想なり想像なりにとって、そのように願望の形式をとることは本質ではない。怖いことや嫌なこと、つまり起こって欲しくないことであっても、人はそれを想像することが出来る。またありうることはもちろん、ありえないことであっても想像は可能である。」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)

想像の内容は、信念とも願望とも結びつきうるのですが、それらと結合しないことも可能であるということです。

ここで思い浮かぶのは、次の発話が異なる発語内行為をするが、同じ命題行為(指示と述定)をもつというサールの指摘です(参照、サール『言語行為』坂本百大、土屋俊訳、勁草書房、39)。

 「サムは習慣的に喫煙する」(主張)。

 「サムは習慣的に喫煙するか」(質問)

 「サムよ、習慣的に喫煙せよ」(命令)

 「サムが習慣的に喫煙してくれたらなあ」(願望)

ここでは、命題行為は、異なる発語内行為を結合しうるが、しかし、どのような発語内行為も行わないで、命題行為だけをおこなうことはできないと言われています。この指摘は正しいでしょう。そうすると、上記の「想像」についても、同じことが言えるのではないでしょうか。同一の想像が、信念や願望と、また、ありうると思うこととや、ありえないと思うことと結合しうるでしょう。しかし、どのようなコミットメントとも結合しないことはありえないのではないでしょうか。

命題行為が適合の方向を持たず、発語内行為が適合の方向を持つ(ただし「表現型発話」だけは適合の方向を持たない)ように、<想像>そのものは適合の方向を持たず、それが他の志向性(想起、信念、先行意図、行為内意図、願望)と結合することによって適合の方向を持つことになるではないでしょうか。

そうすると、<想像>は、適合の方向を持つ志向性の要素となる、と言うことになりそうです。

このとき、適合の方向を持つ<志向性>だけが、志向性であり、適合の方向を持たない<想像>は、<志向性>には含めないということにした方がよいかもしれません。

ここまであいまいな部分をペンディングにしたまま考察してきましたが、以上を踏まえて、志向性全体についてもう一度考えてみたいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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