[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
通常の問いの答えは命題ですが、推論が問いの答えになることがあります。それは「なぜ」の問いです。「なぜ」の問いの答えは、命題ではなく推論になります。「なぜ」の問いに対する答えとして、推論が示されるとき、推論の妥当性は、推論の誠実性条件になるでしょう。つまり「なぜ」の問いに対する答えとして推論が与えられてときには、推論は志向性だといえるでしょう。しかし、「なぜ」の問い以外の問いに答えるときに、行われる推論については、志向性をもつということは難しいと思います。(なぜなら、その推論は注意されていないからです。その推論で意識されているのは、結論(問いの答え)の方だからです。ただし、このような内観による説明では、全く曖昧で不十分であることを認めます。)
問いに対して、観察によらずに即座に答得られる時があります。それは、これまでも話してきた、行為内意図についての「あなたは今何をしていますか?」とか、信念についての「あなたはpと信じていますか?」などの問いです。これらの問いに対する答えは、推論に基づいていないようにみえます。しかし、問いを理解して、問いを受け入れて答えているとしたら、問いの前提を受け入れて答えているはずです。問いの前提にもとづいて、答えていることになります。つまり、問いに答える時には、つねに推論していることになります。
(このことは、非言語的な探索でも、おそらく同じようにいえるでしょう。探索には前提があり、探索に答えることはその前提を受け入れることによって成立します。したがって、非言語的探索に答えることもまた、推論によって成立します。この場合、この推論もまた非言語的推論であるでしょう。ただし、これは今のところ思弁的な推測にとどまります。)
言語的志向性の場合と非言語的志向性(知覚的イメージ)の場合がありますが、どちらも問いの答えとして成立するだろうと推測します。そして、どちらの場合も、志向性は、問いの前提にもとづく推論によって生じるといえそうです。
(志向性については、サールが論じている「集合的志向性」についても問答推論と関係を考察する必要がありますが、それは機会を改めて行いたいとおもいます。)