[カテゴリー:問答の観点からの認識]
知覚報告は肯定判断の形式をとり、否定判断にはならない、と考えるのが一般的だろうと思われます。この場合、例えば、「これは青くない」という判断について、知覚を記述した知覚報告だとは考えません。「これは青くない」という知覚報告なされるのではなく、例えば「これは赤い」という知覚報告が真であることから、「これは赤い、赤いものは青くない、ゆえにこれは青くない」という推論によって、「これは青くない」という命題が真とされるのです。
しかし、ラッセルはこのようには考えませんでした。なぜなら、「これは青い」と「これは青くない」は、どちらが知られる場合にせよ、同じような仕方で、知覚現象から直接に得られるように思われるからです。それゆえに、ラッセルは「これは青い」に対応する事実が存在するように、「これは青くない」に対応する「否定的事実」が存在すると考えました(参照、ラッセル『論理的原子論の哲学』高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、70-76)。
確かに、「これは青い」も「これは青くない」も知覚から同じように直接に得られるように思われます。この点でラッセルは正しかったでしょう。しかし彼が間違えたのは、「これは青くない」が真の時、対応する事実があると考えたことです。つまり「否定的事実」の存在を主張した点です。
私が提案したいのは、次のようなことです。「これは青いですか?」という問いが与えられたとき、知覚現象に基づいて、「これは青い」や「これは青くない」という答えが帰結する場合に、これらの判断は、知覚現象に基づいていますが、知覚現象に内容的に対応すると考える必要はないだろうということです。なぜなら、答えの命題内容を、決定するのは、知覚現象だけでなく、問いもそれに関わっているからです。問いにおいて、答えはすでに半分与えられており、知覚現象から残りの半分が与えられると考えられるからです。
赤いリンゴを見ているときに、「それ白いですか」と問われたら「それは白くないです」と答え、「それは青いですか」と問われたら「それは青くないです」と答え、「これは黄色いですか」と問われたら、「それは黄色くありません」と答えるでしょう。このとき、「それは白くない」「それは青くない」「それは黄色くない」が対応する3つの否定的事実(ないし否定的知覚性質)を記述しているのだと考える必要はありません。
さてしかし、知覚対象についての否定判断が、否定的事実を記述しているのだと考える必要がないのだとすれば、同様の理由で、知覚対象についての肯定判断も、肯定的事実を記述していると考える必要がないのではないでしょうか。