27 多くの経験判断は知覚報告に還元されない (20210627)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

多くの経験判断は、最終的には何らかの知覚報告に基づいています。しかし、知覚報告だけに基づいているのではありません。言い換えると、多くの場合、経験判断を知覚報告と推論だけから構成することはできません。経験判断を知覚報告と推論だけから構成することを、「経験判断を知覚報告に還元する」と言うならば、多くの経験判断は、知覚報告に還元されません。これに関して、いくつかの例を挙げ、分類し、その原因を説明し、そのような経験判断が成立する理由を説明し、その正当性を検討したいとおもいます。ただし今はまだ満足のできる仕方でそれを分類できないので、とりあえずいくつかの例を挙げることから始めます。

・全称判断は知覚報告を超えています。なぜなら、知覚報告は単称判断だからです。よく挙げられる例「すべてのカラスは黒い」は知覚報告から証明することはできません。なぜなら、これを証明しようとするとき依拠できる知覚報告は「このカラスは黒い」という単称命題になるからです。

・傾性判断は、知覚報告を超えています。なぜなら、知覚報告は現在形の判断だからです。よく挙げられる例には「水溶性」「壊れやすい」などがあります。「塩は水溶性である」とは、「もし塩を水に入れたら、塩は水に溶ける」という意味ですがが、これを知覚報告から証明することはできません。一つには、これが全称命題だと言ことがあります。これが全称命題であるので、単称にする必要がありますが。単称にすると次のようになります。「この塩を水に入れたら、この塩は水に溶ける」。しかし、これもまた知覚報告ではありません。これを水に入れたときには、「この塩は水に溶けている」と知覚報告できますが、この塩を水に入れていない段階では、それが水溶性であるかどうかを語ることはできません。つまり、「この塩は水溶性である」を知覚報告に還元することはできません。

 重要なことは、<ほとんどの性質を表現する語は、ほとんどの場合傾性語として使用されている>ということです。例えば、ひとが「これは青い」というとき、一分後もそれが青いままであることを含意していることがほとんどでしょう。この意味で使用されるとき、「青い」は、「或る程度時間がたっても青いままである」という傾性語であり、その意味で「それは青い」が語られるとき、それを知覚報告だけから証明することはできません。知覚報告だけで証明できるのは、「今これは青い」とか「今これが青く見えている」だけです。

 傾性判断が知覚報告に還元されないのは、知覚報告が現在形の文だからです。傾性判断は、条件法をもちいて、その後件で知覚報告をもちいて表現されますが、知覚報告は直接法現在形の文であるので、傾性判断を知覚報告に還元することはできないのです。

・経験的否定判断は、知覚報告を超えています。「財布がない」という判断は、知覚報告には還元できません。「机の上に財布がない」「ズボンの中に財布がない」仮にこれらを知覚報告と呼ぶことにしたとしても、これらの報告を(経験的に)網羅することはできません(なぜなら、大抵は予期しないところが、財布が見つかるからです)。このような意味で「財布がない」は知覚報告に還元できません。(このケースをどのように分類すべきは、ペンディングにしておきます。)

・種述定判断は、知覚報告を超えています。ここに「種述定判断」というのは、ある対象が属する種を特定する判断です。例えば、「これはリンゴです」がそれです。これは、例えば「これはリンゴですか」という問いに対する答えになりますが、これに答える時、

  「これはどんな色か」

  「これはどんな形か」

  「これはどんな大きさか」

  「これはどんな味か」

  「これはどんな香りか」

などの多くの問いを自問自答して「これはリンゴです」と答えることになるでしょう。しかし、これらの種々の問いのへ答え(知覚報告)から導かれる答えは、論理的には「リンゴ」以外にもありえます。それはリンゴによく似た別の果物かもしれないからです。したがって、種述定判断は、知覚報告には還元されません。「リンゴ」という語(対象)を学習する過程は、「あかい」という語(性質)を学習する過程と同じようなものであり、「これは赤い」が知覚報告であるならば、「これはリンゴである」もまた知覚報告である、という反論があるかもしれません。この反論を認めるとすると、「それ自身が知覚報告ではない種述定判断は、知覚報告に還元できない」ということになります。

知覚報告に還元されない経験判断には、他にどのようなものがあるでしょうか。

このことから何が帰結するのでしょうか。