34 フィヒテの反実在論 (20210930) 

[カテゴリー:日々是哲学]

(フィヒテとスピノザに関する論文とある本の査読がようやく終わりました。あと、科研の申請書が残っていますが、それも峠を越えましたので、これから元のペースでかきこみできるだろうと思います。)

 前回次のように述べました。

フィヒテは、カントの「統覚」の概念に触発されて、<存在することは、知られることである>と考えました(フィヒテの表現では、例えば「あらゆる存在が知性の思考によってのみ生じ、それ以外の存在については何も知らないとする」となります)。ここから、知の存在もまたさらに知られていることになります。また知と知の関係も、関係が存在するためには、知られている必要があります。これらを反復すると、全ての知を包括する一つの知(絶対知)に行き着きます。

  この論証の難点は、<存在することは、知られることである>という出発点にあります。フィヒテは、カントの「統覚」の概念から、このことに思い至ったのだろうと思われます。しかし、カントは、フィヒテのようには考えませんでした。カントは次のように言うだけです。「あらゆる表象に、「私が考える」が伴い得るのではなければならない」。

 これは、あらゆる表象について、もし「あなたはそれを考えていますか?」と問われたら、「はい、私はそれを考えています」と答えることになる、という意味だと思います。例えば、私の部屋の中にあるすべて物について、私はそれが存在すると考えているのではありません。わたしが、そう考えていないときにも、部屋の中のものはありますし、その部屋の中にはないと考えていたものすら、見つかることがあります。

 フィヒテは、このような反論にどう答えるでしょうか。おそらくダメットの反実在論のような答え方をするでしょう。例えば、部屋の中にはないと思っていた昔の爪切りが出てきたとしましょう。このとき、爪切りを発見した時、爪切りは知られることによって、存在していると言えるのですが、普通は、爪切りを発見する前も爪切りは部屋の中に存在していたと考えるでしょう。つまり、「爪切りは私の部屋の中に存在するかしないかのどちらかである」(二値原理)が正しいと考えます。「爪切りが発見されたのだから、発見していなかった時にも、爪切りは存在したのだ」と考えます。古典論理の二値原理は、物の存在がそれの表象から独立しているという実在論とこのように結合しています。それに対して古典論理の二値原理をとらず、直観主義論理を採用するときには、物が存在するかしないか、を知らないときには、「その物は存在するかしないかのどちらかである」という二値原理は妥当しないと考えます。つまり、爪切りを発見する前には、爪切りはあるともないとも言えません。これは「爪切りがあるかないか分からない」ということではありません。「爪切りが有るか無いか決まっていない」ということです。

 つまり、反実在論の立場で、<存在することは、知られることである>と主張るときには、<知られていないものは、存在しない>ということではなく、<知られていないものは、あるかないか、決まっていない>と主張することになるだろうと思います。反実在論の立場では、「ある対象xが存在しない」と語るためには、「ある対象xが存在しない」ということが知られている必要があります。

 フィヒテがこのように考えていることの証拠となるのは、次の箇所です。ここでフィヒテが例に上げる判断は「Aは赤い」です。

「赤い色に関して、Aは判断に先立ってどのように存在しているであろうか。明らかに無限定である。Aには全ての色が所属しうる、その中で赤色も所属しうる。判断によってはじめて、すなわち繋辞「ある」によって自己の活動を表すところの構想力を介しての判断の綜合的な活動によってはじめて無限定なものが限定される。」(「知識学の特性綱要」SWI, 380. 全集訳4, 415)

では、ある人が「Aは赤い」と判断したが、そのあと「Aは青い」と解ったとしましょう。この時、実在論者は、対象Aの色は、それについての判断とは独立に成立しており、人がそれを「Aは赤い」と判断した時にも、実際には青色であったと考えるでしょう。これに対して、フィヒテは、私たちの判断とは独立に、対象Aが存在したり、色を持ったりするとは考えません。では、フィヒテは、ある人が「Aは赤い」と判断した時には、Aは赤く、その後「Aは青い」と判断した時には、Aは青くなったと考えるのでしょうか。そうではないでしょう。なぜなら、これは明らかにおかしいからです。ある人の判断が変化した時、その人が信じていることは、<彼女が以前には「Aが赤い」と判断したものを、その後「Aは青い」と判断するようになり、そのようにAについての知が変化した>ということです。つまり、フィヒテもまた、AとAについての知を区別するのですが、その区別は知の内部における知です。この場合に存在するのは、知の変化ではなく、知の変化の知なのです。

(話がズレてしまいましたが、ここからフィヒテのスピノザ批判の話に何とかして、戻ってゆきたいと思っています。)

33 「絶対知」はなぜ必要なのか? (20210924)

[カテゴリー:日々是哲学]

フィヒテの「絶対知」は、カントの「統覚」概念のフィヒテなりの継承発展の一つの帰結です。

もし全ての対象が知られることによって私にとって存在するのだとすると、知もまた知られることによって存在します。そうするとこの知もまた存在するには、知られる必要があります。こうしてある知が成立するには、知の知の知の・・・と反復することになります。意識の場合もどうようでえあり、意識の意識の意識の・・・と反復することになります。この反復が終わらなければ、知も意識も成立し得ません。そこでフィヒテは、「意識の意識」と言う時に、「意識される意識」と「意識する意識」が同一であるような意識がなければならないと考え、それを「知的直観」と呼びました。全ての知は存在するためには最終的には知的直観に基づかなければならないのですが、では知的直観が二つあるとき、どうなるでしょうか。一つの知的直観が、他方の知的直観にとって存在するためには、それによって知られる必要があります。ところで、複数の知があるとき、それらの関係が成立しますが、その関係が成立するためには、それが知られる必要があります。このようにしてすべての知の関係が知られていくとき、最終的に知は一つの知に包括されることになります。絶対知というのは、すべての知をこのように包括する知の知です。それは個人の数だけあるのではなく、一つしかありません。

 バークリは、実体を観念の束と考え、「存在するとは知覚されることである」と主張しましたが、サクランボが存在するとは、それが知覚されることであるとしても、サクランボの知覚が存在することは、さらに何らかの仕方で知られる必要があるとは考えませんでした。だから彼のいう観念や知覚は、さらに知られたり意識されたりしなくても、存在しているのです。その点では、机のような実体とおなじ存在の仕方をしています。それゆえに、フィヒテは、バークリを「実在論者」と呼んだのです。

 フィヒテにとって、バークリをもじっていうならば、「存在するとは、知られることである」と言えます。フィヒテの表現ではこうなります。「あらゆる存在が知性の思考によってのみ生じ、それ以外の存在については何も知らないとする」 (「知識学 への 第二序論」GAI-4, 237, SWII, 483)フィヒテは、これが「最も決定的な観念論」であると述べています。

 この「絶対知」の主張の何処に問題があるのかを次に説明します。

33 フィヒテによるカントの「統覚」の展開 (20210922) 

[カテゴリー:日々是哲学]

フィヒテの『知識学の叙述』(1801/02)は、彼が出版を計画し、第一部の14章まではすでに印刷も終わっていたのですが事情により出版されなかったものです(この経緯については、『フィヒテ全集』晢書房、第12巻の「解説」に詳しい説明があります)。前期フィヒテは、「自我」ないし「自己意識」を原理にして知の体系を叙述しようとしていたのですが、『知識学の叙述』(1801/02)からは、「絶対知」を原理にして知の体系を叙述しようとするように変化します。ここから「後期」フィヒテが始まります。この変化の理由をどう説明するかという問題が、フィヒテの「変説問題」と言われるものです。(この前期から後期への変説について詳しくは、拙論 「観念論を徹底するとどうなるか --フィヒテ知識学の変化の理由―」『ディルタイ研究』第18号、日本ディルタイ協会発行、pp.38-54、2013.(https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER33.pdf)をご覧ください。)

 フィヒテは、カント哲学を知って決定論を克服できると考えるようになったと言われています。そのとき、フィヒテにとって重要だったのは、カントの「統覚」の考えです。カントの統覚は、認識の成立において、直観に与えられる多様と悟性のカテゴリーを結合して認識を形成するときには、その二つを結合するものです。すべての表象には、「私が考える」という表象が結合しうるのであり、これによって、表象は私の表象になるというものです。統覚は「私が考える」という表象だと言われることもありますが、「私が考える」という表象と他の表象(直観の多様や知覚や経験的概念など)を結合する能力でもあるだろうと思います。表象が成立するには、表象の表象もまた必要であり、意識が成立するには、意識の意識もまた必要なのです。しかし、単なる反復ではなく、それが自己表象、自己意識であることが必要です。そのとき「私が考える」という表象が発生しているのです。自己意識が成立するには、意識されている意識と、意識している意識が同一であるだけでなく、その同一性の意識が必要です。ちなみに「自己意識(Selbstbewusstsein)」という語は、カントの造語です(「意識(consciousness)」はロックの造語です。西田幾多郎の『善の研究』には「自覚」は登場しますが、「自己意識」の語はありません。おそらく西田は、Selbstbewusstseinを「自覚」と訳していたのだろうとおもいます。それをいつ頃から「自己意識」と訳すようになるのかは、未確認です。関心のある方は調べてみてください。)

 このように意識は自己意識として成立します。前期フィヒテは、これを「事行」(Tathandlung)とか「知的直観」とか「自我性」と呼びました。後期フィヒテは、これを「知の知」とか「絶対知」と呼びます。

 この「絶対知」がどうして必要になるのかは次回に説明します。そこからさらに「絶対的存在」に言及するようになるどうしてなのかは、フィヒテ研究者にとって重大な謎です。これについては、次回に推測を説明します。それからスピノザ批判に向かうことにします。

32 唯物論と観念論の共約不可能性 (20210920)

[カテゴリー:日々是哲学]

 フィヒテは、スピノザ哲学を唯物論の哲学とみなして批判するのですが、しかし前期(1793年から1800年、これはフィヒテがイエナにいた時期に相当します)には、観念論と唯物論の対立は深刻であり論争不可能であると考えています。

「これらの二つの体系はいずれも相手を直接に論駁することはできない。というのも、両者の争いは、それ以上は他から導出することのできない第一原理についての争いだからである。両者はいずれも、自分の原理だけを承認するときに、相手の原理を論駁する。いずれも相手のすべてを否定し、両者は、相互に理解しあい、相互に一致しうるようなどんな点をも共有しない。たとえある命題の語句について両者の意見が一致したように見えたとしても、両者は同じ語句を違った意味で受け取っているのである。」(GA I/4, 191, SW I, 429f. 日本語全集7巻、373)

これはクーンの言うパラダイムの共約不可能性の説明とそっくりではないでしょうか。パラダイムの共約不可能性は、通常は言明の共約不可能性として考えられているかもしれませんが、根本的には問いの共約不可能性です。何故なら、言明は問いに対する答えとして成立するからです(もちろんこれは、私の意見でフィヒテの意見ではありません)。では問いが共約不可能であるにもかかわらずそれが対立したり競合したりするのはなぜでしょうか。それはそれらの問いがより上位の問いを共有しているからです。共約不可能な二つの問いの直近の上位の問いがまた共約不可能であるとしても、上位の問いをさかのぼっていけば共通の問いに行き着くとおもいます。自然科学の場合には、最上位の問いは「自然はどうなっているのか?」という問いであり、それに答えるために様々な下位の問いが立てられるのであり、それを下っていくとき、すべての科学的な問いは、そのどこかに登場するはずです(このアイデアをさらに詳細に論じることは、いずれ別のカテゴリーで行いたいとおもいます)。

 では、唯物論と観念論の対立は共通の上位の問いを持つのでしょうか。これらが対立・競合している限りは、共通の問いがあるはずです。しかし、この対立は自然哲学ないでの対立ではなく、哲学対立です。哲学の最上位の問いとは何でしょうか。この答えは、哲学によって異なります。

例えば、唯物論では「物自体とは何か?」であるかもしれませんし、観念論では「知性とは何か?」であるかもしれません。もしそうだとすると、この二つの哲学はなぜ競合するのでしょうか。それは、唯物論の最上位の問い「物自体とは何か?」に答えるために下位の問いを立て、それを下っていくなかに「知性とは何か?」が登場し、それと観念論の「知性とは何か?」の問いの意味が異なるからです。そもそも「知性」で指示しているものが異なるだろうと思われます。逆に、観念論の最上位の問い「知性とは何か?」に答えるために下位の問いを立て、それを下っていくなかに「物自体とは何か?」が登場し、それと唯物論の「物自体とは何か?」の問いの意味が異なるからです。 

 では、どうしたらよいのでしょうか。フィヒテは、この違いは、唯物論者と観念論者の「関心」の違いであると考えています。

「観念論者と独断論者の相違を生む究極的な根拠は、彼らの関心の相違なのである」(GA , SW I, 433, 全集七巻、三七六)

「人がどのような哲学を選ぶかは、彼がどのような人間であるかにかかっている」(GA , SW I, 434, 全集七巻、三七八)

前期フィヒテは、唯物論と観念論の共約不可能性の前で立ち止まるしかありませんでしたが、後期フィヒテになると少し変わってきます。

31 フィヒテのスピノザ批判 (20210918)

[カテゴリー:日々是哲学]

唐突ですが、9月末までに、「フィヒテのスピノザ批判」についての論文を仕上げなければなりません。それと並行して別のことを考える時間がないので、しばらくフィヒテについて書くことにします。

フィヒテにとって、スピノザは生涯にわたる最大の論敵でした。もちろんスピノザ(1632-1677)とフィヒテ(1762-1814)の間には100年以上の隔たりがあります。フィヒテがスピノザを論敵と考えたのは、彼がスピノザを唯物論者だと考えたためです。フィヒテにとっては、唯物論(彼にとっては「実在論」も「独断論」も「唯物論」と同じ意味でした)は、物自体だけが存在するという主張であり、意識もまたその物自体によって説明されるものです。現代哲学では、自然主義者の立場になると思います。フィヒテがこの唯物論を批判するのは、それが自由を否定するからです。彼にとって自由は何よりも重要なものでした。脳研究やAI研究が進んでいる現代においても人間の自由は、脅かされています。フィヒテの時代に、スピノザを読んで自由の危機を感じたのは、一部の知識人だけだったでしょうが、現代では、ほとんどの人が、自由の危機を感じているのではないでしょうか。その意味では、フィヒテが、スピノザをどう批判し、自由を擁護したのかを確認することは興味深いことではないでしょうか。

(ただし、フィヒテのスピノザ理解が正しかったのかどうか、つまりスピノザの全体像が、フィヒテが考えていたような唯物論者であったのかどうかについては、反論の方が多いかもしれません。しかし、スピノザが意志の自由を認めていなかったことは事実だとおもいますので、フィヒテがスピノザを最大の論敵とみなしたことは、スピノザに対する誤解ではないと思います。)

 次回から、フィヒテのスピノザ批判を説明します。

38 「論理的語彙による事実の明示化」の問題に戻る (20210915)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

論理学・数学の言明の「無意味性」理解(カルナップ)と、「実在性」理解(クワイン)の対立について、考察すると予告しましたが、思ったよりも簡単に結論がでました。それは次の通りです。

<問答関係を分析的と綜合的に分けるとき、綜合的問答関係は事実に関わりますが、他方分析的問答関係は、事実には関わりません。その意味で、分析的問答関係は「無内容」だと言えます。しかし分析的問答関係の答えが「無内容」であるということにはなりません。なぜなら、分析的問答関係にある問いの理解と問いの前提の是認が、クワインの言う意味で事実的要素を含んでいるからです。その意味で、分析的問答関係の答えは、「実在性」をもちます。>

結論が出たので、31回で提起した「論理的語彙による事実の明示化」というテーマに戻ります。

疑問表現と論理的語彙は、その保存拡大性により、その他の表現の意味の明示化に役立つのですが、他方で、事実の明示化にも役立つだろうと推測しました。

31回で、次のように述べました。

「前回(30回)私は、<p┣pという同一律は、pの命題内容に関係なく成立することから、同一律がpの意味の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律はpの意味を作り上げているのであり、その意味でpの意味を明示化している>、と見なすことを提案しました。

これと同じように、<p┣pという同一律は、世界の状態にかかわらず、つねに成り立つことから、同一律が、事実の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律がpという事実を作り上げているのであり、その意味でpの事実を明示化している>、と考えることができます。たしかに、トートロジーの命題は、ある事実を他の事実から区別する事には役立ちません。しかし、それは事実についての基本的な性質、ないし事実の存在の仕方を明示化していると考えることも出来るのではないでしょうか。

 以下の考察のために、この二つの理解に、トートロジーについての「無内容性」理解と、「有意味性」理解という名前を付けることにします。

 次回から、このどちらが正しいのかを、考えたいとおもいます。」

 論理学・数学の「有意味性」理解をその後「実在性」理解に改めましたが、この考察の結論が、冒頭に記した結論になります。この結論を踏まえて、上記の引用の問題提起を考えたいと思います。

37 クワインへの応答 (20210913)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 次の二段階で、クワインに応答したいとおもいます。

 まず、論理学や数学の問いの場合、それを理解し、その問いの前提を是認するとき、意味論的規則の理解と是認が含まれていると思われます。この意味論的規則とその是認が、事実的要素に基づくとしても、それを前提した上で、この問いに答える時に、この意味論的規則だけを用いて答えを導出できるとすると、この問答関係は、分析的です。

 次に、クワインが言うように、「言語一般について、意味論的規則とは何か?」とか「特定言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに答えることができないとしても、論理学数学の問いに答える時には、暗黙的に想定した「意味論的規則」に従っています。そしてこの意味論的規則の理解と是認は、問いの理解と問いの前提の是認に含まれています。したがって、私たちが意味論的規則を明示的に示すことができなくても、その問答は分析的なのです。

#理論的な問答の二重問答関係の場合

ここで、分析・綜合の区別が二重問答関係においてどうなるのかを説明しておきたいとおもいます。

  <Q2→Q1→A1→A2>

という二重問答関係(Q2に答えるために、Q1を立てその答えA1を前提として、Q2の答えA2を導出するという関係)があるとします。この場合、Q1とA1がアプリオリで分析的な問答関係であるとします。ここで、Q1の理解とその前提の是認に意味論的規則の理解と是認が含まれており、それらがクワインの言うように事実的要素を持っているとすると、それらを前提に含むQ2とA2の問答関係は、アプリリオリで分析的なものではありえないと思われるかもしれません。しかし、Q1とA1の問答関係で使用される意味論的規則が、Q2とA2の問答関係で使用される意味論的規則に含まれているのであれば、それはQ1の理解とその前提の是認に含まれることになるので、それらの意味論的規則の事実的要素は、Q2とA2の問答関係において前提されており、そのことを考慮する必要はありません。つまり、Q2とA2はこの場合でも、アプリオリで分析的です。

 もしQ2とA2の問答関係の意味論的規則が、Q1とA1の問答関係の意味論的規則を含んでいないならば、その場合には、Q2とA2の問答関係は事実的要素に基づくことになり、綜合的なものとなります。

 以上によって、クワインの批判に応えて、言明ではなく問答関係の性質として考えるならば、分析/綜合の区別が可能であることを示せたと考えます。

 以上の議論を踏まえて、前述の対立、つまり論理学・数学の言明の「無意味性」理解(カルナップ)と、「実在性」理解(クワイン)の対立について、考察したいと思います。

36 クワインへの応答に向けて (20210911)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

クワインが、分析綜合の区別を批判するときの最も強力な論点は、「分析的に真である」を「Lの意味論的規則によって真」と定義することへの批判であると思います。

「ある言明がL0において分析的であるのは、それが、具体的に列挙されたこれこれの意味論的規則によって真であるとき、かつ、その時に限られる」ということはできます。しかし、この「意味論的規則」を定義しなければ、「分析的」の定義にはなりません。

 クワインは、意味論的規則をどう定義するかは、論理学で公準(公理)をどう定義するかの問題と似ており、この問題に答える基準は無いと考えます。一群の式を公準として選択して、それに選択した推論規則と組み合わせて、そこから他の式を導出するためのものが、「公準」です。このとき、「言明(多分、真である方がよいが)の有限の(あるいは、実効的に特定可能な無限の)選択はどれでも、公準の一つの集合として他の選択に劣るものではない。「公準」という語は、何らかの探求の行為と相対的にのみ意義を持つ。」(クワイン「経験主義の二つのドグマ」(クワイン著『論理的観点から』飯田隆訳、勁草書房、所収)53)「意味論的規則の概念も、同様に相対的な仕方で考えられるならば、公準の概念と同程度に、道理にかない有意味である。」(同訳、53) 「だが、この観点からは、Lの真理のある部分クラスを取り出す仕方のあるものが、それ自体として、他の仕方よりも意味論的規則としてふさわしいわけではない。」(同訳54)

クワインによれば、「ある言語の意味論的規則は何か?」という問いに対する一般的な形式的答えというものは見つけられません。それゆえに、この問いを限定して、「言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに換え、それに対して「言語Lの意味論的規則は、…である」という仕方で答えるしかないのです。しかもこの時の答え方には幾通りもあるのです。つまり言語一般に関しても、また特定言語Lに限ったとしても、「意味論的規則」を定義できないのです、したがって「分析的」を定義できないのです。

私は、「言語一般についてのその意味論的規則とは何か?」とか「言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに答えることができないということには同意します。従って、クワインが言う意味での「分析的に真」の定義ができないことには同意します。しかし、それらの問いに答えられなくても、ある種の問いには、意味論的規則だけによって、答えており、他の種の問いには、意味的規則だけで答えているのではなく、知覚や記憶や伝聞などにも基づいて答えているのですが、そのときでも意味論的規則に従っている、というように問答関係を分析的なものと綜合的なものに区別できると考えます。

言明ではなく、問答を単位とすることによって、言語的要素と事実的要素を分けられることを論証しなければなりません。

35 問答の四つのケースの再検討 (20210909)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前々回と前回の述べた、問答の四つのケースの再検討を行いたいと思います。

#問答のケース1

  「5+7=12は真であるか?」「はい、5+7=12は真です」

この問いの意味論的前提の一つは、「「5+7=12」が真であるか、真でないかのどちらかである」ということです。これは、「「5+7=12」が自然数論の公理から導出できるか、できないかのどちらかである」と言い換えられます。ところで、この問いを理解することは、「5+7=12」の理解を伴いますが、この式を理解することは、この式を自然数論の公理系の適格な式(wff)として理解することです。したがって、この式を理解する人は、「この式が真であるか、真でないかのどちらかである」という問いの意味論的前提(の一部)を理解しており、さらに、この前提が成り立つことを認めています。このケースは、<問いの理解が、同時に問いの前提の是認となるケース。しかも問いの前提から、論理的推論によって答えを導出できるケース>です。

 他の論理学・数学の問いと答えも、一般的にこの例と同様のケースだと言えます。

#問答のケース2

  「机の上にリンゴがあるかないかのどちらかですか?」

この問いは、「机が存在する」ということを前提しています。

この前提が成り立つことは、知覚に基づくことになります。この前提を是認するならば、問いに対する答えは、問いの分析によって、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」となります。つまり、「アポステリオリで分析的」な問答関係となります。

 ちなみに次の問答関係は、ケース1とおなじく「アプリオリで分析的」です。

  「もし机があるなら、その机の上にはリンゴが有るか無いかのどちらかである」

この問いの前提は、何でしょうか。それはp∨¬p、論理規則や意味論的規則です。そしてこれらは、問いの理解を前提するならば、その前提から帰結します。

#問答のケース3

  「机の上にリンゴがありますか?」「はい、机の上にリンゴがあります」

この問いを理解するということは、(他の問いの場合と同様に)この問いの上流問答推論や下流問答推論の正しさを判別できるということです。問いの理解は、言語の理解を必要としますが、他にも世界について理解を前提するだろうとおもいます。

 この問いの意味論的前提(つまりこの問いが正しい答えを持つための必要条件)の一つは、「机がある」ということです。この問いの前提を是認するためには、机を知覚する必要があります。さらに、この問いに答えるためには、机の上を見てリンゴがあるかないかを知覚によって判断する必要があります。

 問いの理解を前提するとき、この問いの前提を是認するには、知覚が必要であり、またこの問いに答えるためにも、知覚が必要です。したがって、この問答関係は「アポステリオリで綜合的」なものです。

#問答のケース4:問いを理解することによって、問いの前提が成立する問い。

出張が多くて、ホテルに泊まることが多い人は、目覚めたときに、自分がどこにいるのかわからなくて次のように自問することがあるでしょう。

  「私はどこにいるのだろう?」

このように自問する人は、当然この問いを理解しています。この問いの前提は、「私がどこかに存在する」ということです。人がこの問いを理解するとき、この問いの前提は成立しているし、それを知っています。この問いの前提は、問いの理解を前提するのならば、常に是認されます。この問いはアプリオリに成立します。(ただし、ここでは、問いの意味論的前提(問いが正しい答えを持つための必要条件)だけでなく、語用論的前提(問うという行為が成立するための必要条件)も考慮していると思われるので、もう少し分析が必要だろうと思います(参照、『問答の言語哲学』p. 224)

 他方、この問いに答えるには、昨夜の行動を思い出し、その記憶に基づいて答える必要があります。あるいは、昨夜の記憶がないなら、部屋を出て、そこがホテルであるのかどうか、どこにあるホテルなのか、などを確認する必要があります。したがって、この問いに答えることは、綜合的です。このように考える時、この問答関係は「アプリオリで綜合的」です。

#方針のまとめ

以上の考察は、次のような方針にまとめることができます。

①問いの理解がどのようにして生じるのかは問わず、問答関係を考察するときに、問いの理解は前提とします。

②問いの前提の是認が経験を必要としないならば、その問いはアプリオリであり、その問答関係もアプリオリです。問いの前提の是認が経験を必要とするならば、その問いはアポステリオリであり、問答関係もアポステリオリです。問いが設定されても、答えが得られるとは限らないので、答えが得られない場合を考慮して、「アプリオリ」と「アポステリオリ」の区別を、問答関係だけでなく、問いについても認めることにします。(「分析的」と「綜合的」の区別は、問いについては認めず、問答関係だけに認めることにします。なぜなら、「分析/綜合」の区別は、主語と述語の結合関係の区別のように思われてきましたが、問いと答えの関係の区別だからです。すべての発話は、焦点を持ち、それを明示化すると分裂文になりますが。それは問いに対する答えとして、その文が成立することを示しています。参照『問答の言語哲学』第二章)

 <問いの前提の是認がアプリオリに行われるか、アポステリオリに行われるか>の違いは、<問いの理解から問いの前提の是認が帰結するか、帰結しないか>の違いである。

③問いの答えが、問いの理解と問いの前提の是認から、形式論理的に答えが導出されるのならば、その問答関係は、「分析的」です。問いの答えが、問いの理解と問いの前提の是認から、知覚、記憶、伝聞によって得られるのならば、その問答関係は「綜合的」です。

④ケース4の「アプリオリで綜合的」という用語は奇異に思われる用法かもしれませんが、慎重に吟味したつもりです。今のところ、このように表記したいと思います。

これで、クワインからの批判に応えられるかどうか、次に検討したいと思います。

34 問答推論の観点からの分析/綜合の区別(2)(20210907)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回に続いて、いくつかの問答のケースの例を考察したいと思います。

#ケース3

  「机の上にリンゴがありますか?」「はい、机の上にリンゴがあります」

この問いを理解するということは、(他の問いの場合と同様に)この問いの上流問答推論や下流問答推論の正しさを判別できるということです。ところで、この問いの意味論的前提(つまりこの問いが正しい答えを持つための必要条件)の一つは、「机がある」ということです。この問いの前提を認めるためには、机を知覚する必要があります。さらに、この問いに答えるためには、机の上を見てリンゴがあるかないかを判断する必要があります。

 つまり、この問いの前提が成立しているという認識は、知覚に基づくものなので、問答はアポステリオリに成立します。そして、答えは問いの分析によって与えられるものではありません。したがって、この問答関係はアポステリオリで綜合的なものです。

#ケース4:問いを理解することによって、問いの前提が成立する問い。

出張が多くて、ホテルに泊まることが多い人は、目覚めたときに、自分がどこにいるのかわからなくて次のように自問することがあるでしょう。

  「私はどこにいるのだろう?」

このように自問する人は、当然この問いを理解しています。この問いの前提は、「私がどこかに存在する」ということです。したがって、人がこの問いを理解するとき、この問いの前提は成立しています。つまり、この問いは常に有効であり、それに対して真なる答えが存在することになります。この意味で、この問いはアプリオリに成立します。

 他方、この問いに答えるには、昨夜の行動を思い出し、その記憶に基づいて答える必要があります。あるいは、昨夜の記憶がないなら、部屋を出て、そこがホテルであるのかどうか、どこにあるホテルなのか、などを確認する必要があります。したがって、この問いに答えることは、綜合的です。このように考える時、この問答関係はアプリオリで綜合的だ、と言えそうです。

前回のケース1と今回のケース4はともに、問いを理解するとき、常に問いの前提が成立しています。しかし、二つのケースには、次のような違いがあります。

 ケース1では、問いの前提の成立は、問いの理解と無関係である。

 ケース4では、問いの前提の成立が、問いの理解によって生じる。

前回のケース2と今回のケース3はともに、問いを理解するときに、常に問いの前提が成立しているとは限りません。

 ケース2では、問いの前提が成立するとき、問いの前提の成立から、答えが分析的に帰結します。

 ケース3では、問いの前提が成立するとき、問いに対する答えは、知覚や記憶を介して、綜合的に与えられます。

これらをまとめると次のように言いたくなります。

ケース1の問答関係は、アプリオリで分析的

ケース2の問答関係は、アポステリオリで分析的

ケース3の問答関係は、アポステリオリで綜合的

ケース4の問答関係は、アプリオリで綜合的

問答関係としての真理をこのように4つに分類することができるでしょうか。

この分類は整合的でしょうか?明晰判明でしょうか?有用でしょうか?

これを次に考えたいと思います。