36 クワインへの応答に向けて (20210911)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

クワインが、分析綜合の区別を批判するときの最も強力な論点は、「分析的に真である」を「Lの意味論的規則によって真」と定義することへの批判であると思います。

「ある言明がL0において分析的であるのは、それが、具体的に列挙されたこれこれの意味論的規則によって真であるとき、かつ、その時に限られる」ということはできます。しかし、この「意味論的規則」を定義しなければ、「分析的」の定義にはなりません。

 クワインは、意味論的規則をどう定義するかは、論理学で公準(公理)をどう定義するかの問題と似ており、この問題に答える基準は無いと考えます。一群の式を公準として選択して、それに選択した推論規則と組み合わせて、そこから他の式を導出するためのものが、「公準」です。このとき、「言明(多分、真である方がよいが)の有限の(あるいは、実効的に特定可能な無限の)選択はどれでも、公準の一つの集合として他の選択に劣るものではない。「公準」という語は、何らかの探求の行為と相対的にのみ意義を持つ。」(クワイン「経験主義の二つのドグマ」(クワイン著『論理的観点から』飯田隆訳、勁草書房、所収)53)「意味論的規則の概念も、同様に相対的な仕方で考えられるならば、公準の概念と同程度に、道理にかない有意味である。」(同訳、53) 「だが、この観点からは、Lの真理のある部分クラスを取り出す仕方のあるものが、それ自体として、他の仕方よりも意味論的規則としてふさわしいわけではない。」(同訳54)

クワインによれば、「ある言語の意味論的規則は何か?」という問いに対する一般的な形式的答えというものは見つけられません。それゆえに、この問いを限定して、「言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに換え、それに対して「言語Lの意味論的規則は、…である」という仕方で答えるしかないのです。しかもこの時の答え方には幾通りもあるのです。つまり言語一般に関しても、また特定言語Lに限ったとしても、「意味論的規則」を定義できないのです、したがって「分析的」を定義できないのです。

私は、「言語一般についてのその意味論的規則とは何か?」とか「言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに答えることができないということには同意します。従って、クワインが言う意味での「分析的に真」の定義ができないことには同意します。しかし、それらの問いに答えられなくても、ある種の問いには、意味論的規則だけによって、答えており、他の種の問いには、意味的規則だけで答えているのではなく、知覚や記憶や伝聞などにも基づいて答えているのですが、そのときでも意味論的規則に従っている、というように問答関係を分析的なものと綜合的なものに区別できると考えます。

言明ではなく、問答を単位とすることによって、言語的要素と事実的要素を分けられることを論証しなければなりません。