[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
問答推論の観点から、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立についてどう考えるかを説明したいと思いますが、そのためには、問答推論の観点から分析/綜合の区別をどう考えるかを説明する必要があります。(前に[カテゴリー:問答の観点からの認識]の36回(20210724) において、「分析的に真」と「綜合的に真」、「アプリオリに真」と「アポステリオリに真」について新定義を提案しましたが、ここではそれを少し修正して、ここで再提案を試みたいと思います。)
私は、カルナップを含む多くの論者と同様に、「分析」と「綜合」は論理的概念であり、「アプリオリ」と「アポステリオリ」は認識論的概念であると考えることにします。ただし、問答推論の立場では、判断を問いに対する答えとして成立するものとして捉えるので、「分析」「綜合」「アプリオリ」「アポステリオリ」は、命題や判断がもつ性質ではなく、問答関係がもつ性質だと考えます。
#問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することを伴う。
・「問いの意味論的前提」とは、「問いが真なる答えを持つための必要条件」であるとすると、問いが答えを持つ限りは、意味論的前提をもつはずです。ところで、問いの意味は、問いの上流と下流の問答推論関係として成立することです。それゆえに、問いの意味論的前提を理解することは、問いの下流問答推論関係を理解すること(の一部)です。<問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することである>、このことはすべての問いについて言えるでしょう。
ただし、問いの意味論的前提を理解することは、その意味論的前提が成立していることを認めることではありません。
#問いの理解と問いの成立(問いの前提の成立)
問いの前提が正しくなければ、問いは成立しないが、問いの前提が成立しない問いでも理解することは可能です。例えば、「フランス王は禿げていますか?」という問いは、「フランス王が存在する」を前提としている。この前提が真でないとしても、この問いを理解することは可能です。しかし、この前提が真でないなら、この問いは成立せず、この問いに答えることもできません。この問いに「はい」と答えることも「いいえ」と答えることもできません。このことは、補足疑問の場合も同様です。「フランス王はどんなひげを生やしていますか?」という補足疑問も、問いの前提が真でないなら、その問いに答えることはできません。
以上をふまえて、次にいくつかの問答のケースの例を考察したいと思います。
#ケース1
ある種の問いでは、問いの意味論的前提を理解することは、同時にそれを認めることです。次の例で説明しましょう。
「5+7=12は真であるか?」
この問いの意味論的前提の一つは、「「5+7=12」が真であるか、真でないかのどちらかである」ということです。では、「5+7=12」が真であるとは、どういうことでしょうか。それは、この式が自然数論の公理から導出できる、ということです。この式を理解するとは、この式を、適格な式(wff)とする自然数論の公理系を理解していることです。したがって、この式を理解する者は、「この式が真であるか、真でないかのどちらかである」という問いの意味論的前提(の一部)を理解しており、さらに、この前提が成り立つことを認めています。
この例と同様に、論理学・数学の問いは一般に、<問いを理解することが同時に問いの意味論的前提を理解することだけでなく、その意味論的前提が成り立つことを認めることです>。
#ケース2
「机の上にリンゴがあるかないかのどちらかですか?」
この問いの場合、一見すると問いの意味を理解するだけで、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」と答えられると思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら、この問いは机が存在することを前提しているからです。もし机があれば、これに対する答えは、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」となりますが、もし机がなければ、この問いは無効であり、「はい」と答えることも、「いいえ」と答えることもできません。つまり無効な問いんに対する答えはありません。
この問いの前提が成立すること、つまりこの問いが成立することを知るためには、机を知覚することが必要です。つまり、問いの前提の成立は、経験的認識を必要とします。
これら以外のケースの考察は、次回に行いたいと思います。