[カテゴリー:日々是哲学]
フィヒテの「絶対知」は、カントの「統覚」概念のフィヒテなりの継承発展の一つの帰結です。
もし全ての対象が知られることによって私にとって存在するのだとすると、知もまた知られることによって存在します。そうするとこの知もまた存在するには、知られる必要があります。こうしてある知が成立するには、知の知の知の・・・と反復することになります。意識の場合もどうようでえあり、意識の意識の意識の・・・と反復することになります。この反復が終わらなければ、知も意識も成立し得ません。そこでフィヒテは、「意識の意識」と言う時に、「意識される意識」と「意識する意識」が同一であるような意識がなければならないと考え、それを「知的直観」と呼びました。全ての知は存在するためには最終的には知的直観に基づかなければならないのですが、では知的直観が二つあるとき、どうなるでしょうか。一つの知的直観が、他方の知的直観にとって存在するためには、それによって知られる必要があります。ところで、複数の知があるとき、それらの関係が成立しますが、その関係が成立するためには、それが知られる必要があります。このようにしてすべての知の関係が知られていくとき、最終的に知は一つの知に包括されることになります。絶対知というのは、すべての知をこのように包括する知の知です。それは個人の数だけあるのではなく、一つしかありません。
バークリは、実体を観念の束と考え、「存在するとは知覚されることである」と主張しましたが、サクランボが存在するとは、それが知覚されることであるとしても、サクランボの知覚が存在することは、さらに何らかの仕方で知られる必要があるとは考えませんでした。だから彼のいう観念や知覚は、さらに知られたり意識されたりしなくても、存在しているのです。その点では、机のような実体とおなじ存在の仕方をしています。それゆえに、フィヒテは、バークリを「実在論者」と呼んだのです。
フィヒテにとって、バークリをもじっていうならば、「存在するとは、知られることである」と言えます。フィヒテの表現ではこうなります。「あらゆる存在が知性の思考によってのみ生じ、それ以外の存在については何も知らないとする」 (「知識学 への 第二序論」GAI-4, 237, SWII, 483)フィヒテは、これが「最も決定的な観念論」であると述べています。
この「絶対知」の主張の何処に問題があるのかを次に説明します。