33 問答推論の観点からの分析/綜合の区別  ((20210905)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 問答推論の観点から、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立についてどう考えるかを説明したいと思いますが、そのためには、問答推論の観点から分析/綜合の区別をどう考えるかを説明する必要があります。(前に[カテゴリー:問答の観点からの認識]の36回(20210724) において、「分析的に真」と「綜合的に真」、「アプリオリに真」と「アポステリオリに真」について新定義を提案しましたが、ここではそれを少し修正して、ここで再提案を試みたいと思います。)

 私は、カルナップを含む多くの論者と同様に、「分析」と「綜合」は論理的概念であり、「アプリオリ」と「アポステリオリ」は認識論的概念であると考えることにします。ただし、問答推論の立場では、判断を問いに対する答えとして成立するものとして捉えるので、「分析」「綜合」「アプリオリ」「アポステリオリ」は、命題や判断がもつ性質ではなく、問答関係がもつ性質だと考えます。

#問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することを伴う。

・「問いの意味論的前提」とは、「問いが真なる答えを持つための必要条件」であるとすると、問いが答えを持つ限りは、意味論的前提をもつはずです。ところで、問いの意味は、問いの上流と下流の問答推論関係として成立することです。それゆえに、問いの意味論的前提を理解することは、問いの下流問答推論関係を理解すること(の一部)です。<問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することである>、このことはすべての問いについて言えるでしょう。

 ただし、問いの意味論的前提を理解することは、その意味論的前提が成立していることを認めることではありません。

#問いの理解と問いの成立(問いの前提の成立)

 問いの前提が正しくなければ、問いは成立しないが、問いの前提が成立しない問いでも理解することは可能です。例えば、「フランス王は禿げていますか?」という問いは、「フランス王が存在する」を前提としている。この前提が真でないとしても、この問いを理解することは可能です。しかし、この前提が真でないなら、この問いは成立せず、この問いに答えることもできません。この問いに「はい」と答えることも「いいえ」と答えることもできません。このことは、補足疑問の場合も同様です。「フランス王はどんなひげを生やしていますか?」という補足疑問も、問いの前提が真でないなら、その問いに答えることはできません。

以上をふまえて、次にいくつかの問答のケースの例を考察したいと思います。

#ケース1

ある種の問いでは、問いの意味論的前提を理解することは、同時にそれを認めることです。次の例で説明しましょう。

  「5+7=12は真であるか?」

この問いの意味論的前提の一つは、「「5+7=12」が真であるか、真でないかのどちらかである」ということです。では、「5+7=12」が真であるとは、どういうことでしょうか。それは、この式が自然数論の公理から導出できる、ということです。この式を理解するとは、この式を、適格な式(wff)とする自然数論の公理系を理解していることです。したがって、この式を理解する者は、「この式が真であるか、真でないかのどちらかである」という問いの意味論的前提(の一部)を理解しており、さらに、この前提が成り立つことを認めています。

 この例と同様に、論理学・数学の問いは一般に、<問いを理解することが同時に問いの意味論的前提を理解することだけでなく、その意味論的前提が成り立つことを認めることです>。

#ケース2

  「机の上にリンゴがあるかないかのどちらかですか?」

この問いの場合、一見すると問いの意味を理解するだけで、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」と答えられると思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら、この問いは机が存在することを前提しているからです。もし机があれば、これに対する答えは、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」となりますが、もし机がなければ、この問いは無効であり、「はい」と答えることも、「いいえ」と答えることもできません。つまり無効な問いんに対する答えはありません。

 この問いの前提が成立すること、つまりこの問いが成立することを知るためには、机を知覚することが必要です。つまり、問いの前提の成立は、経験的認識を必要とします。

これら以外のケースの考察は、次回に行いたいと思います。

32 トートロジーについての「無内容性」理解と「実在性」理解((20210902)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回の最後に述べたトートロジーについての「無内容性」理解と「有意味性」理解の対立について考えたいと思いますが、後者を「実在性」理解と呼ぶことにしたいと思います(この方が違いが分かりやすいと思うからです)。。

カルナップが、論理学・数学の命題を無内容としたのは、それがどのような事実においても真とであるからです。それゆえにまた、「論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない」といいます。カルナップのように論理学・数学の「無内容」理解を採用するとき、そのような無内容な命題と、内容のある命題を区別することになります。この区別は、分析命題と綜合命題の区別にかさなるでしょう。カルナップによれば、分析命題と綜合命題の区別は、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別と重なります。この二つの区別の間にズレはありません。したがって、カントが「アプリオリな綜合判断」とみなしたものは、カルナップによれば、アプリオリで分析的なのか、アポステリオリで綜合的なのか、このいずれかです。例えば、幾何学の公理「二点を結ぶ直線は一つである」は、カントによれば、アプリオリな総合判断ですが、これに対して、カルナップは、幾何学を、数学的幾何学と物理的幾何学に区別し、数学的幾何学の命題は、分析的でアプリオリであり、物理的幾何学は綜合的でアポステリオリであると考えました(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第18章 カントの綜合的アプリオリ」)。

 これに対して、論文「経験論の二つのドグマ」のクワインのように、分析と綜合を区別できないとし、全ての真理が綜合的であると考える時、論理学・数学の真なる命題もまた、世界の状態について、事実について、語っているということになります。つまり、クワインは、論理学・数学の「実在性」理解を採用するでしょう。

 クワインは、「経験論の二つのドグマ」おいて、分析的真理と綜合的真理を区別できるというドグマと、経験的命題をセンスデータ言明に還元できるという「還元主義のドグマ」を批判します。

「言明を単位として考える根源的還元主義は、ひとつのセンスデータ言語を特定して、その言語に属さない有意な叙述を、言明ごとにこのセンスデータ言語に翻訳する仕方を示すという課題を立てる。カルナップは、『世界の論理的構築』において、この企てに着手した。」59

この根元的還元主義はうまくゆかず、カルナップは、根元的還元主義を捨てることになるのですが、クワインによれば、その後もカルナップは還元主義のドグマをもちつづけていると言います。

「還元主義のドグマは、それぞれの言明が、その仲間の諸言明から切り離してとらえられとき、とにかく験証ないしは反証が可能である」(61)という考えです。

クワインはこの二つのドグマを共に批判し、「この二つのドグマは、実際、その根においては同一である。」(61)と考えます。「[その同一の根とは] 言明の真理性は、何らかの仕方で、言語的要因と事実的要因へと分析できるという考えである。われわれが経験主義者であれば、事実的要因は、確証的経験の範囲ということに帰着する。言語的要因がすべてであるような極端な場合においては、真である言明は分析的である。」(邦訳62)

「個々の言明の真理性における言語的要因と事実的要因について語ることが、それ自体ナンセンスであり、他の多くのナンセンスの源でもある」(邦訳62)

「科学は、全体としてみられたとき、言語と経験の両方に依存している。だが、この二元性は、個々別々に考えられた科学的言明においては有意味な仕方では見出せないものなのである。」62

クワインは、言明の真理性に関する「言語的要因」と「事実的要因」を分けることできないと主張します。これは、分析/綜合の区別の否定から帰結することです。

次に、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立について、問答推論の観点から考えたいと思います。

31 論理的語彙による事実の明示化 (20210901)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

<論理的語彙と疑問表現が、それ以外の言語表現の意味の明示化すること>について、これまで(18回から30回まで)説明してきました。ここから、<論理的語彙と疑問表現が、事実を明示化すること>について検討したいとおもいます。

 とりあえずは、論理的語彙によって事実の明示化(解明)ができることを確認しましょう。例えば「これは青リンゴです┣これはリンゴであり、かつ青い色です」という推論は、青リンゴの定義ではないとしても、青リンゴがどのような性質を持つのかを明示化しています。その意味で、「これは青リンゴです」のこの下流推論は、青リンゴに関する事実を明示化しています。このように実質的推論において使用されている論理的語彙(この例では「かつ」)は、事実の明示化という機能をもちます。

 では次のような論理的に真なる命題はどうでしょうか。p→p、p∨¬p、¬(p∧¬p)、など。これらの論理的に真なる命題は、pがどんな内容の物であっても真となります。したがって、これらによって事実を明示化することはできないと考えられることがおおいです。例えば、カルナップは、次のように言います。

「いったん論理法則における用語の定義が理解されると、この法則が世界の性質とはまったく無関係なやり方で真でなければならない、ということが明らかになる。それは必然的な真理であり、また哲学者たちがしばしばいうように、すべての可能な世界に通用する真理なのである。」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店1968、原書1966、p.10)

「このことは、論理学の法則と同様に数学の法則についても当てはまる。…「1+3=4」という法則の真理性は、これらの意味から直ちにでてくる。…3次元のユークリッド空間は、一定の基礎的条件を満足する順序付けられた実数の3つ組の集合として、代数学的に定義することができる。しかしすべてこれは、外的世界の性質については何も扱ってはいない。群論の法則やユークリッド的三次元空間の抽象幾何学の法則が成立しない、可能な世界は存在しない、というのは、これらの法則はそれに含まれている用語の意味にのみ依存し、わたくしたちがたまたま存在している現実的な世界の構造には依存しないからである。」(同訳書、p.11)

「その代価とは、論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない、と言うことである。わたくしたちは、3たす1が4であることを確信しうる。しかしその理由は、このことがどんな可能な世界にでも通用し、わたくしたちが住んでいる世界について、何も語りえないからである。」(同訳書、p.11)

確かに、論理的に真なる命題は、世界がどのような状態であっても真となります、言い換えるとすべての可能世界で真となります。そこから、これらは世界の状態について何も語っていない、というのです。カルナップのこの考えは、おそらくウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で論理学、数学の命題をトートロジーとみなし、「無内容(sinnlos)」とみなしたことに由来するのだろうと思います。

前回私は、<p┣pという同一律は、pの命題内容に関係なく成立することから、同一律がpの意味の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律はpの意味を作り上げているのであり、その意味でpの意味を明示化している>、と見なすことを提案しました。

これと同じように、<p┣pという同一律は、世界の状態にかかわらず、つねに成り立つことから、同一律が、事実の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律がpという事実を作り上げているのであり、その意味でpの事実を明示化している>、と考えることができます。たしかに、トートロジーの命題は、ある事実を他の事実から区別する事には役立ちません。しかし、それは事実についての基本的な性質、ないし事実の存在の仕方を明示化していると考えることも出来るのではないでしょうか。

 以下の考察のために、この二つの理解に、トートロジーについての「無内容性」理解と、「有意味性」理解という名前を付けることにします。

 次回から、このどちらが正しいのかを、考えたいとおもいます。