[カテゴリー:問答の観点からの認識]
観察語/理論語、観察文/理論文、経験法則/理論法則、これらの区別は、それほど簡単ではありません。
まず、観察語/理論語の区別の難しさについて、説明します。
カルナップは、観察語と理論語の境界は曖昧であるといいます。(同訳「第23章 理論と観察不可能なもの」)。カルナップによれば、科学者は、哲学者が用いるのよりもはるかに広い意味で「観察可能なもの」を理解しており、観察から簡単に推論できるものもまた、「観察可能なもの」に含めています。例えば、哲学者は「摂氏80度」の温度とか、93.5ポンドの重さとかを、観察可能なものには含めません(なぜなら、それは見たり持ち上げたりするだけではわからないからです。それは、温度計や測りによってわかることであり、厳密にいえば、計測器具についての知識にもとづく、推論によってわかることだからです)。しかし、科学者はこれらを観察可能なものとみなします。科学者は「観察されたことから推論された」ものも「観察可能なもの」に含めるのです(同訳231)。したがって、科学者は、「摂氏80度」を観察語と考え、哲学者は理論語と考えるということになります。
観察語と理論語の境界がこのように連続的だとすると、その区別に基づいている観察文と理論文の境界もまた連続的であることになり、理論文の中の混合文と純粋理論文の境界も連続的であることになります。しかし、カルナップはこの点が大きな問題になるとは考えていません。
「「観察可能」と「観察不可能」という概念は連続的なのであるから、はっきりと定義できない、と言うことは本当である。とはいっても実際の使用上では、二つの概念の相違はふつう十分に大きいので、議論の余地はありそうもない。すべての物理学者は、たとえば、気体の圧力、体積および温度を関係づける法則は経験法則である、と一致して考えるであろう。…すべての物理学者は、一つ一つの分子のふるまいについての法則が理論法則である、ということに同意するであろう。このような法則は、簡単かつ直接的測定で一般化を基礎づけることのできない、ミクロ過程に関与するのである。」234
この引用からすると、カルナップは、「観測可能」と「観察不可能」が連続的であるとしても、物理学者が、「観測可能」と「観察不可能」の区別に困ることはないと考えているのです。
では、「経験的法則」と「理論的法則」の区別についてはどうでしょうか。この区別もまた連続的なのでしょうか、それともこの二つは異質な法則なのでしょうか。
経験的法則は、観察語で記述される観察文(例えば「このカラスは黒い」「この水は一気圧100度で沸騰する」「この鉄棒は、熱っされると、膨張する」)を一般化して出来る全称命題(例えば「すべてのカラスは黒い」「すべての水は一気圧100度で沸騰する」「すべての金属は、熱っされると、膨張する」)ですが、理論法則は、この一般化をさらに一般化することによって得られる法則ではないからです。
理論法則は、経験法則がなりたつ原因を説明する法則です。例えば「なぜすべてのカラスは黒いのですか」「なぜすべての水は一気圧100度で沸騰するのですか」「なぜすべての金属は、熱っされると、膨張するのですか」に答えるときに、前提となる法則です。
「なぜpですか?」という原因の問いへの答えは推論となりますが、例えば、その推論が「r、s┣p」であり、rが法則命題であり、sがその法則の適用を限定する条件であって、経験法則pが帰結する、という関係にある時、法則命題rは、経験法則pの原因を説明する「理論法則」になります。
(ここで、次の反論があるかもしれません。曰く<経験法則も、個別観察文の原因を問う「なぜ」の答えとなるのではないか。たとえば「なぜこのカラスは黒いのか」という問いに「なぜなら、全てのカラスは黒いからです」と答えることができるのではないか>という批判があるかもしれません。
これに対しては、<その場合の「なぜ」は個別現象の原因を問う「なぜ」ではなく、個別現象の主張の根拠を問う「なぜ」になっています。個別事例がなぜ生じるのかを説明するのに、全称命題で答えるのは、単称命題の根拠を示すことであって、単称命題が表現する出来事の原因を示すことではないのです>と答えられます。)
「経験法則」は、経験の一般化であり、経験の「記述」であって「説明」ではありません。これに対して、現象の説明をするのは、経験法則の説明をする「理論法則」です。「理論法則」は現象の記述ではなく、説明です。このように考える時、「経験法則」と「理論法則」の区別は明確であり、両者は異質な法則であるように見えます。
「経験法則」と「理論法則」の関係をもう少し考えたいと思います。