36 フィヒテのスピノザ批判にもどる (20211005)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回説明したフィヒテの3つのアイデアは、互いに独立しているのではなく、第一のアイデア「事行」を前提して、そこから第二のアイデア「絶対知」が成立し、この「絶対知」を前提して、第三のアイデア「絶対者」が成立するという関係にあります。私自身は、この3つのアイデアすべてにそれぞれ疑念を持っているのですが、しかし、フィヒテ哲学に可能性があるとすれば、それは、この3つのアイデアを生かしていくことにあるだろうと思っています。

 以上を前置きにして、フィヒテのスピノザ批判を説明したいとおもいます。フィヒテは、スピノザ哲学を唯物論とみなして、それを批判します。前に(31回)に述べたように、フィヒテがそれを批判するのは、スピノザが意志の自由を否定するからでした。スピノザは、個人の意思決定が自由であると考えることを錯覚だとして批判するのですが、しかし実体(神)については、それが「自由原因」であることを認めます(『エチカ』第1部定理17系2)。この証明は、次の定義に基づいています。「自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であるといわれる」(第1部定義7)。

 スピノザにとっては、「自由」とは、「自己の本性の必然性」にしたがって行動を決定することなのです。このスピノザに影響されたシェリングとヘーゲルもまた、自由を「内的必然性」に従うことと考えました。

 シェリングは『人間的自由の本質』において「行為というものは、英知的存在者の内奥から、ただ、同一性の法則にしたがって、また絶対的な必然性をともなって、のみ、生じてくることができるのであって、このような絶対的必然性のみが、また絶対的自由でもあるのである。」(今本が手元にないのですが、『人間的自由の本質 およびそれと関連する諸対象に関する、哲学的諸研究』1809年(『世界の名著 続9 フィヒテ シェリング』中央公論社)渡辺二郎訳、おそらくp.460)と言います。ちなみに、ここでシェリングは、フィヒテの自由を「選択の自由」とみなし、批判しています。

 ヘーゲルは「自由」を「私が私自身の許にある時、私は自由である」(Werke,12,30)と定義しますが、この定義は、「自己の本性の必然性」に従うというスピノザの定義とほぼ同じです。ヘーゲルは、『小論理学』では「必然性の真理は自由である」とも述べています。ヘーゲルもまた、スピノザやシェリングと同様に「自由=内的必然性」と考えているのです。

 若いころにフランス革命にだったドイツ観念論の哲学者たちにとって、「自由」は非常に重要な概念でした。そして「自由」をどう定義するかは、彼らの哲学において重要な課題となります。シェリングとヘーゲルは、スピノザの影響で、自由=内的必然性ととらえるのです。そして、シェリングもヘーゲルもフィヒテが考えている「選択の自由」に対しては批判的でした。

 このフィヒテ理解は正しいです。たしかにフィヒテは自由を「選択の自由」として考えていました。ただし、フィヒテは、「内的必然性=自由」という自由理解に否定的でした。フィヒテにとっては、「選択の自由」こそが真の自由概念なのです。(私もこれに賛成です。なぜなら、内的必然性=自由という考えには曖昧な部分が残りますし、何が内的必然性であるかを考える時に、自分の価値観を暗黙の裡に挿入しているように思われるからです。実存主義を持ち出すまでもなく、「内的必然性」をそもそも認めない人も多いでしょう。)

 スピノザ(シェリング、ヘーゲル)とフィヒテとの「自由」理解の違いは、「絶対者」の理解の違いと密接にリンクしています。スピノザ(シェリング、ヘーゲル)の絶対者は、個人を含めてすべての個物をその中に含んでいる汎神論的な絶対者です。それゆえに、絶対者は個人の内的必然性もまた含んでいるのです。これに対して、フィヒテの絶対者は、純粋な存在であって、個人はその外部にあります。個人や個物は「絶対知」の内部に成立するものですが、その「絶対知」は「絶対者」の外部にあります。「絶対知」は「絶対者の現象」と呼ばれます。「絶対知」の内容は、知の必然的法則によって決定されるのですが、「絶対知」の存在は、法則によってではなく、また絶対者によってでもなく、自由によって成立します。「絶対知」は必然的法則をもつ「内容」と、自由によって成立する「形式」という二つの契機から成っており、このうちの前者の必然的法則の根拠として「絶対者」が想定されています。他方、知の「形式」である「自由」は、知の必然的法則から独立しているのです。この自由は、必然性を持たない偶然的な決定ないし選択なのです。

 スピノザ、シェリング、ヘーゲルでは、絶対者は汎神論的全体(ヘン・カイ・パーン)であり、それゆえに、絶対者の内的必然性は、個人はそれから独立した選択の自由を持つことは出来ません。これに対して、フィヒテは「ヘン・カイ・パーン」を否定します。フィヒテの枠組みでは、いかなる必然性や法則からも自由な「選択の自由」が可能になります。

 フィヒテが、このような「自由」概念を採用するのは、<存在するとは知られることである>とする「事行」や「自己意識」の理解のためです。彼の徹底した観念論は、スピノザ、シェリング、ヘーゲルの、「自由」理解、「絶対者」理解とは、両立しないのです。

 フィヒテは、晩年の講義「意識の事実」(1810)において、彼の「自由」理解を次のように明確に述べています。

「知そのものは、その内的形式と本質からすると、自由の存在である。[…]人は一見して、自由というのはそれだけで存立する別のなにものかがもつ特性であって、そのものに内属するのだ、と考えたくなるかもしれないが、そうではなくて、自由は独自の自立的存在にほかならないのである。そして、自由のこの自立的で別個の存在こそが知なのである、と言いたい。」(GA II/12, 27f, SW II, 550, 330, 全集19巻、43)

ここでフィヒテは、自由はある存在者の特殊な能力とか特殊な性質ではないといいます。彼の言う自由は、スピノザの「内的必然性」に従うことのような能力や性質ではなく、ある形式で存在することそのもの、あるいは存在形式に他なりません。彼は自由についてのインフレ主義的な解釈を排して、デフレ主義的な解釈を提示していると見ることができます。つまり、自由は、存在内容にかかわるのではなく、存在形式に関わるものなのです。知の存在は、それ自身が知られている必要があります。そのような自己知としての知の存在は、自由という存在のあり方をします。知と自由は、フィヒテにとっては不可分の存在形式なのです。知が存在するためには、知が存在することが知られている必要があり、また行為や知の活動が自由であるためには、活動が自由であることが知られている必要があり、また自由であることを知る活動自身も自由でなければなりません。もし<そのように考えない>ならば、私たちは知や自由とは無関係に成立している存在を、知や自由の<担い手>として認めることになるでしょう。しかし、そのような存在を認めることは、二元論であり、フィヒテが追求している徹底的な観念論とは矛盾するのです。

 (以上で、31回から行ってきた、フィヒテのスピノザ批判の説明を終わります。もう少し詳しい説明は、来年に出版される予定の共著論文集をご覧ください。出版されましたら詳しい情報をお知らせします。)

 では、私たちは、フィヒテの言う「事行」(自己意識)について、また「絶対者」(純粋存在)について、どう考えるべきでしょうか。クワインの存在の言語相対性の主張、中期パトナムの内部実在論は、現在でもある程度の説得力を持つと思うのですが、その場合、世界のありようを説明する理論は、言語相対的であり、言語を超えた世界については、語ることができません。しかし、それが存在すると想定することは可能であり、言語相対的であれ言語を決定すれば、理論は必然的なものとして立ち現れることになります。その理論の必然性を説明するために、理論の背後に純粋存在を想定することは出来そうです。これは現代における一つの有力な存在論の形でしょう。フィヒテが考えていた知識学の枠組みは、この考えに似ているのです。

 ここから先をどう考えるかは、私たちの課題です。