74 佐々木さんの質問への回答(4) ブランダムのハーバーマスへの応答 (20220114)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

今回と次回は、ブランラムからハーバーマスへの応答’Facts, Norms, and Normative Facts: A Reply to Habermas,’を紹介します。

ハーバーマスは、前掲書第3章の後半、4節、5節、6節でブランダムのMIEに対する懸念をのべていました。ブランダムは、この論文の冒頭でこの懸念を次のようにまとめています。

1,ブランダムの概念実在論では、概念的に分節化された事実からなる世界のなかで言説実践が成立するが、それらの事実の概念構造は、言説実践のおかげで成立するのではない。

2,言語的実践にアプローチする義務論的スコア記録は、(第三人称のパーペクティヴと対比されるものとしての)二人称の視点をどこまで取りこめているのか。

3,規範的事実の観念をめぐる懸念

ブランダムの論文はI, II, III、IVという4つに分かれていますが、Iで懸念の1に応え、IIで懸念の2に応え、IIIとIVで懸念の3に応えています。まずIでの懸念1についての応答を紹介したいとおもいます。(以下に示す数字は、ブランダムの論文のページ数です。)

ブランダムは、MIEで、<言説的実践>と<非言説的実践と単なる自然的事物の構成素>を明確に区別し、前者は、<理由を与え求めるゲーム>をすることであり、<概念を運用することないし適用すること>どみなします。

彼は、このように言説的実践と非言説的実践の区別を認めるのですが、他方、<概念的なもの>と<非概念的なもの>の区別は認めません。なぜなら「概念的なものの領域の外部には何もない」(37)ので「そのような境界は存在しない」(356)からです。さらに、彼は事実の概念的分節化について次のように述べます。

「世界はまず、物の集まりではなく、事実の集まりとして理解される。事実は、原則として語られうる(statable)ことによって弁別される。事実は、真なる主張である。「主張claim)」といのは、主張行為という意味ではなく、主張することによって表現される主張可能な内容という意味である。主張可能な諸内容(これは類であり、事実はその種である)は、互いに対して、本質的に実質推論的関係、両立不可能な関係にある。こうして諸事実は、概念的に分節化されている。」(356) (ちなみに「事実は真なる主張(claim)である」はMIE327,622にも登場します。)

このアプローチは、ハーバーマスが「概念実在論」ないし「客観的観念論」と呼んだものです。ブランダムは、ハーバーマスは概念実在論について二つの懸念を表明したと言います。それは、概念実在論が「認識論的受動性」と「意味論的受動性」にコミットしているのではないかという懸念です。ブランダムは論文のIでこの二つの「受動性」に関わる懸念を順番に取り上げます。

 まず「認識論的受動性」ですが、ハーバーマスは「概念実在論」を認識論的概念ではなく、形而上学的概念として理解しており、認識論に関してブランダムを批判していないと思うで、ブランダムがハーバーマスの議論をこのようにまとめるのは少し的外れであるような気がします。ただし、形而上学的な主張はつねに認識とかかわってしまうのも事実です。実際、ハーバーマスは、「こうした「実在論的な」世界理解は、経験には、受動的な媒介の役割しか認めないことになる。」(ハーバーマス『真理と正当化』邦訳、199)と批判していました。この点が、概念実在論は「認識論的受動性」にコミットしているという批判になるのでしょう。

 さて、ブランダムは、この批判に次のように応えます。

「私たちは、観察するのではなく、実験する。私たちは、理論と仮説を作り、それらをテストし、それらを修正する。認知は、認知、行為、認知というフィードバックに支配された循環の一要素としてでなければ理解できない。」357

「<私たちの言説実践を、その実践から独立な事実の世界に根差すものとして見て、私たちの主張を、正確さに関してそれらの事実について責任をもって答えることとして見ること>は、知識の傍観者理論へのコミットメントを決して含んでいない。」(358 下線は入江、< >は文の構造を明示するための、入江による附加)

ブランダムは、ここで「対象からなる世界」と「事実からなる世界」の区別について次のように述べます。ブランダムは、「世界はまず、物の集まりではなく、事実の集まりとして理解される。」(356)というのです。「事実の観念は、対象を明示的に含まない言語において解明されることができる。」358これについては、MIEの6章と8章で行ったと言われます。しかし逆に、「対象からなる世界の構想から始めて、対象を含む事実が何から成るについての理解可能な説明を作り上げる」ことはできない、と言います。例えば、対象についての説明から、事実(特に様相的事実や規範的事実)を説明することは難しいのです(Cf,358)。

この二つの存在論は、二つの意味論の関係に似ていると言われています。(cf.358)。

<存在論における>――<意味論における>

対象ベース存在論 ―― 唯名論的意味論 

事実ベース存在論 ―― 文意味論

ブランダムが「概念的に構造化されている」とか「概念的に分節化されている」と言うのは、対象や物や世界ではなく、事実なのです。

#次に、概念の「意味論的受動性」に関する批判へのブランダムからの応答をみましょう。

概念の「意味論的受動性」への批判とは、<事実を分節化している概念が、私たちが発見べきものであり、受動的に受け取るものだとすると、「概念的発展、概念の開発、修正、という重要な観念を理解できないものにする恐れがある」359>という批判です。

このような「意味論的受動性」への批判に対して、ブランダムは、言明の意味と言明の真理性を区別する二元論を批判することで答えようとします。

「<私たちの言明の意味は、全く私たち次第である。しかし、私たちが表現するその信念の真理は、私たち次第ではない。>私は、この実証主義的見取り図を拒否すべきであると考える。」360

つまり、言明の意味と言明の真理性は、不可分に結合している。

「<何が何から帰結するか(正しい概念とは何か)を語ること>と<どんな主張が真であるか(事実は何か)を語ること>は、解けないほどに互いに結合している。」360

「私たちは、<私たちの活動性から離れると、主張も推論もない>ということに、コミットする。」360

認識が単に受動的なものでも単に自発的に創造されたものでもないとすると、認識と不可分に結合している概念(言明)をつくることや言明(概念)を理解することも、単に受動的なことでも単に自発的に創造することでもない、と言うことになります。

冒頭にあげた懸念1は次でした。

ブランダムの概念実在論では、概念的に分節化された事実からなる世界のなかで言説実践が成立するが、それらの事実の概念構造は、言説実践のおかげで成立するのではない。

ここでは、<言説における概念的な分節化>が<事実の概念的な分節化>に一方的に依存するという考えが批判されている。これに対して、ブランダムが答えるのは、この二つの間には、逆方向の依存関係もあるということです。TMDになると、この二つの概念的分節化を分離して考えるのが、「概念的実在論」であり、この二つの概念的分節化を「意味論的相互依存」の関係においてとらえるのが、「客観的観念論」であるというようになります。(この点については、問答の観点から、後で論じることにします。)

 次に「概念実在論」に対する懸念2と3を説明したいとおもいます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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