56 「概念実在論」の二つの問題(20220126)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

久しぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。

2022の『問答の言語哲学』の合評会で、ハーバーマスからのブランダムの「概念実在論」に対する批判について、どう考えるのか、という質問を受けました。ハーバーマスのブランダム批判と、ブランダムからの応答については、カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」で説明しました。それを受けて、私自身が「概念実在論」についてどう考えるかを説明しなければならないのですが、この議論は、『問答の言語哲学』の主題ではなく、むしろ次著として計画している『問答の理論哲学』(仮)の主題に関わるものなので、このカテゴリーで論じたいと思います。

(その議論は、問答の観点から認識論を再考するというこのカテゴリーの趣旨にそうものです。またこのカテゴリーでの課題として残っていた問題(前回55回を参照)、「現象の領域と理論の領域の区別」をどのように行うか、という問題にもかかわってくる議論になると思います。)

#「概念実在論」の二つの問題

ブランムが「概念実在論」について最も詳しく述べているのは『信頼の精神』(Spirit of Trust、SoT)ですので、ここでは主として、この著作での「概念実在論」を論じたいと思います。ブランダムによれば「概念的である」とは、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にあること」(SoT 54)(「実質的な」の意味はいずれ説明します)ということです。そして、「概念実在論」(SoT 3)とは、「客観的世界をつねにすでに概念形式の中にあるものとして理解すること」(同所)です。あるいは「自然科学が物理的実在として露わにする客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(同所)、あるいは「世界がそれ自体で客観的に存在する仕方は、概念的に分節化されている、という主張」(同所)です。

<「客観的事実と性質」が概念的であること、つまり互いに非両立性や推論的帰結の関係にあること>これについては、ほとんど異論はないでしょう。以下で考えたい問題は二つです。

一つは「この概念構造を私たちはどのようにして認識するのか」という認識論の問題です。もう一つは、「この概念的構造の存在をどのようなものと考えるのか」「この概念構造は、事実そのものの構造として私たちの理解とは独立に存在しているのか、それとも私たちの言語や理論によって構成されたもの、私たちが構成したもの、として存在するのか」という存在論の問題です。

今の私には、この二つの問題を分けて、どちらかを解決してから他方を解決するというような仕方で、取り組むことが難しいので、とりあえずは、この違いに注意しつつも、ときに二つを横断するような仕方で考えたいと思います。

(ブランダム=ヘーゲルは、この存在論の問題について「客観的観念論」で答えます。これについてもいずれ考察します。ブランダム=ヘーゲルは認識論の問題については「概念的観念論」で答えているのだろうと予測します。これについてもいずれ考察します。)

まずは、『問答の言語哲学』でブランダムの推論的意味論を問答推論的意味論に拡張したとの同じように、ここでもブランダムの「概念実在論」を問答推論の観点から再考したいと思います。