[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
ハーバーマスの懸念3は、規範的事実の観念をめぐるものでした。ブランダムは事実の記述にも規範性を認めるので、事実と規範の区別がなくなり、そこから道徳実在論が帰結するという懸念でした。この懸念は、事実と規範の区別がなくなることへの批判と、そこから道徳実在論が帰結することへの批判の二つに分けられます。
ブランダムは第一の批判にIIIで答え、第二の批判にIVで答えています。
まずIIIでの応答を紹介したいと思います。
ブランダムは、ハーバーマスが重視する<事実と規範の区別>が重要であることを認めたうえで、この区別を、<非規範的事実と規範的事実の区別>として捉えます。その理由は、ブランダムが事実でないものは存在しない、と考えるからであろうと推測します。なぜなら、彼にとって事実とは概念的に構造化されたものであり、存在するものは概念的なものだけであり、非概念的なものは存在しないので、事実でないものも存在しないと考えるからであろうと思います。
この非規範的事実と規範的事実の区別は、語彙の区別によって可能になるとされます。「規範的語彙」とは、「コミットメント」や「資格付与」のような語彙であり、実践的推論を可能にするものです。このような語彙は非規範的事実について推論するときには不要なものです。
ここでブランダムは、「規範的事実」を語ることについてのハーバーマスの懸念を次のように説明します。
「ハーバーマスの懸念のいくつかは、<規範的事実についての語りが、例えばコミットメントを引受けるということによって、私たちがそのような事実[規範的事実]をつくりだすことができることを認めることを妨げる>という印象から生じるように見える。あたかも、すべての規範的事実は、私たちの実践的活動性から独立して、すでにそこにあり、多くの非規範的事実と同様に、私たちの認知的認可だけを待っている、に違いないかのようである。」(365)
ブランダムは、確かに「判断と信念は、行為への意図と同じく、規範によって導かれる」のだが、しかし「行為に対する記述的関係と指令的関係の違いは、明白である」と言う。また「実践的コミットメントは、信念的コミットメントから簡単に区別できる」と言う。「というのも、両者は推理において大変異なる役割を持つからである。特に実践的推理においてかなり異なる役割をするからである。(実践的推理においては、実践的コミットメントは、前提および結論として役立ち、信念的コミットメントは、前提にだけ役立つ。)」(366)
つまり、非規範的事実を主張することは、信念的コミットメントを引受けることであり、規範的事実を主張することは、実践的コミットメントを引受けることです。この二つのコミットメントは非常に異なります。前者は信じることへのコミットメントであり、後者は行為することへのコミットメントです。この二つの違いは、上に述べたように推論における役割の違いによって明示化されます。それゆえに、「規範的事実」について語っても、規範を実在論的に捉えることにはならないというのです。
ここでのブランダムの応答の論旨は、複雑で私には、また不明なところがあります。
ここでブランダムは規範的事実と非規範的事実を区別して、私たちは、非規範的事実については、それを発見するが、規範的事実については、それを発見するのではなく、作りあげる(produce)すると言っているように思われます。
しかし他方では、ここでブランダムは、事実と事実の主張の間の依存関係を分析しようとしていて、それによって、(規範的事実だけでなく、非規範的実も含めて)事実が、主張から離れて存在すると考えることを、見直そうとしているように見えます。その議論は、後のTMDやSoTにおける議論<客観的推論的関係(客観的両立不可能性)と主観的推論的関係(主観的両立不可能性)の、相互的意味論的依存関係の主張>につながっていくものだと思われます。
複数の議論の筋道が絡まっているように思われるのです。
(ここでは、事実と主張の間の「明示化的非対称性」の説明がなされており、「事実」の理解と「事実の主張」の理解の間の関係(後のFDMやSoTで名付けられる「相互的な意味論的依存」)の分析が行われています。この点に関する議論が面白いので、ここに備忘録として記しておきます。
「<概念Aが概念Bへの関係をはなれては理解できないがゆえに、Aは、Bが存在することなしには、存在しえない>と考えることは間違いである。」36
ブランダムは、これを仮想の「δ粒子」の比喩で説明します。
「δ粒子発生器の概念は、δ粒子の概念を離れては理解できない。しかし、その装置は、その粒子が存在する前から存在しているかもしれない。」369
同じように、「δ粒子検出器」の概念は、δ粒子の概念なしには理解できない。しかし、その装置は、δ粒子が存在しなくても存在している。
主張は、事実の検出器です。主張(事実検出器)の概念は、事実の概念なしにはないのですが、しかし、事実がなくても、主張(事実検出器)は存在します。つまり、<事実の主張は、事実に意味論的に依存する>ということになります。
他方で、後の「相互的な意味論的依存」のために必要なのは、これとは逆の関係です。事実の明示化は、事実の主張によって行われます。したがって<事実は、事実の主張に意味論的に依存する>ということです。こちらの方はわかりやすいと思います。 }
#次にIVでの道徳実在論になるという批判への応答を説明します。
IIIでのべたように「規範的事実」を認めても、MIEは「非規範的事実」と「規範的事実」の区別を重視するので、「規範の実在論」にはなりません。したがって、また「道徳実在論」にもなりません。
「MIEでは、実践的コミットメントを信念的コミットメントと同化しないことが重要である。
特に、実践的コミットメントは、実践的な行為から独立である事実に対して、その正しさに関して責任を負うと見なされるべきではない。」370
MIEでは、「実践的コミットメント」について論じますが、「道徳的コミットメント」はその一部にすぎません。MIEでは、規範についても語りますが、そこで語られるのは「無条件的規範」(道徳的規範)だけでなく、「道具的な規範」「制度的な規範」などがあります。
「MIEは、このトピック(道徳的コミットメント)については公式には沈黙している。」(371)
それは、「規範性の理論家が道徳的規範にフォーカスするという事実によって、概念的規範性の理解が妨げられてきた」(371)考えるからであると言われています。
このように述べた後、ブランダムは、道徳についての二つの極、「自然種的懐疑論(natural kind skepticism)」(入江:道徳的概念を自然種名の一種とみなす立場なか、それとも自然種だけを認め道徳を認めない懐疑論なのか、よくわかりません)と超越論的表現的理解(カントやハーバーマス)の間に多くの立場がありうるが、MIEの仕事は、それらのための概念的源泉を提供することにあると述べています。
さて、以上でハーバーマスのブランダム論に対するブランダムからのReplyの紹介を終わります。
次に、「問答推論を重視するとき「概念実在論」についてどう考えることになるのか」に答えたいと思います。