58 客観的概念構造と主観的概念構造の相互的意味依存(20220201)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ブランダムは、客観的概念構造(推論的関係)と主観的概念構造(推論的関係)が「相互的意味依存(reciprocal sense dependence)」の関係にあると言います。「意味依存」は「指示依存」と対照的に理解されており、それぞれ次のように定義されます(同様の定義は、すでにTMDの6章にあります)。

・「意味依存」の定義

「XがYに意味依存するとは、Xの概念を把握する事が、Yの概念の把握なしには、不可能である場合である」(SoT 206)

ブランダムの挙げている例では、概念sunburn は 概念sunと burnに意味依存する。また、概念「親」は、概念「子供」に意味依存する。

・「指示依存」の定義

「XがYに指示依存するのは、次の場合のみである。<X(概念Xの指示対象)が、Y(概念Yの指示対象)が存在するまでは、存在しえない>場合である。」(SoT 206)

オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることによって1871年のシカゴ大火災が起こったが、1871年のシカゴ大火災は、オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることに指示依存する。

客観的事実が概念的に構造化されているとは、客観的事態の間の「両立不可能」や「帰結」の関係があるということです。他方で、思考や判断の主観的行為の間にも「両立不可能性」や「帰結」の関係が成り立ちます。なぜなら思考も行為も概念的に分節化されているからです。この二つの側面を、客観的な概念内容と主観的概念内容と呼ぶことにします。ブランダムは、この二つが、「相互に意味依存する」というのです。

主観的な概念内容が客観的な概念内容に意味依存することは、明白であるかもしれません。判断が真であるためには、それが事実の概念構造を正しく表現している必要があるからです。判断の概念内容を理解するには、事実の概念内容を理解する必要があります。

これに対して、客観的概念内容が主観的概念内容に意味依存することは、説明が必要です。この説明がブランダムの概念実在論の独創的なところです。ブランダムは、これを二種類の語彙の間の関係として説明します。客観的概念内容は、「真理様相語彙(alethic modal vocabulary)」によって語られます。真理に関わる語彙だけでなく、様相語彙が必要なのは、自然の法則的な「必然性」や「可能性」を語る必要があるからです。また「反事実的条件法」も必要です。したがって、客観的概念内容を語るには、真理様相語彙が必要です。これに対して、主観の判断や行為を語るには、判断や行為にともなうコミットメントや資格付与の引き受けや拒否やそれらの義務について語る必要があります。したがって、「義務的規範的語彙(deontic normative vocabulary)」が必要です。

ブランダムはこの二種類の語彙の間に相互的な意味依存があるというのです。特にかれが強調するのは、<真理様相的語彙が、義務的規範的語彙に意味依存する>ということです。つまり、真理様相的な語彙の理解と適用を行うためには、義務的規範的語彙の理解と適用が必要であるということです。

「自然法則は、人がそれを理解しなくても、またそもそも人がいなくても、成り立ちうる」ことをブランダムは認めます。しかし、この事実は、反事実的条件法で語られており、様相語彙を使用していますが、それだけでなく、「人がそれを理解しなくても」という主観的な判断を述べた部分を理解するには、義務的規範的語彙を使用しなければなりません。それゆえに、客観的な概念内容を理解するためには、主観的な概念内容の理解が必要なのです。

「私たちは、主体がいない可能世界を理解し記述することができる。[…]しかし、そのような可能性を理解する私たちの能力は、私たちが、義務的規範的語彙の適用によって明示化される実践に関わることができるということに依存している。」(SoT 84)

しかし、客観的概念内容が真であるために、主観的概念内容が真であることが必要だということではありません。つまり、客観的概念内容は、主観的概念内容に意味依存するけれども、指示依存しません。

様相語彙は、規範的語彙に意味依存します。しかし指示依存するのではありません。言い換えると、真理様相語彙で語られていることを理解するには、義務規範的語彙を理解することが語られていることを理解する必要があります。しかし、真理様相語彙で語られていることが真であるために、義務規範的語彙で語られていることが真である必要はありません。(cf.SoT 82)

「概念実在論」としては、このような客観的事実の概念構造と主観的判断と行為の概念構造をそれぞれ主張するだけでよいのですが、この二つの概念構造の間の相互的意味依存関係を主張するとき、ブランダムはこれを「客観的観念論」と呼びます。

概念的実在論:物がそれ自体で何であるかと、物が意識にとって何であるか、の間の内容の存在論的同質性。両者は、概念的に構造化されている、つまり両立不可能性と帰結(媒介と規定された排他的否定)によって分節化されている。(注:概念内容はこれら二つの異なる形式をとり得るので、物はこのテーゼによって、観念と同一視されることはない。)

客観的観念論:諸概念の相互的意味依存によって、私たちは、一方では両立不可能性と帰結の客観的関係を特徴づけ、他方では、両立不可能性を解決し推論を行う主観的プロセスを特徴づける。(注:意味依存は指示依存を伴わないので、客観的世界は思考のプロセスの存在に――例えば、因果的に――依存していると見なされるのではない。)

概念観念論:客観的で概念的に分節化する関係と主観的で概念的に分節化するプロセスの配置は、最初は(知覚―行為-知覚という)意図的行為のサイクルであるプロセスの想起的局面に関連して理解されるだろう。そして、派生的にのみ、そのプロセスによって誘発される関係の用語で理解されるべきだ。(注:このテーゼはまだ主観的プロセスによって分節化された内容と、客観的関係によって分節化された内容の理解に言及している。しかし、それは、(『精神現象学』の)「序文」の用語をもちいて、「実体を主体として捉えること」という用語で表現できる――しかし「主体の活動性の様相における実体-且つー主体」と語る方がよいだろう――これは生気のない物を意識のあるものとして解釈することではない。)」(418f)

ブランダムは、概念実在論と客観的観念論と概念実在論を、ヘーゲルにおける『精神現象学』の展開の三段階として理解してます。(概念実在論については、私にはまだ説明の準備ができていません。)

二つの語彙の相互的意味依存について、問答推論の観点から考察するとどうなるかを、次に考えたいと思います。