63 文は何を表示するのか (20220219)

(訳語について:以下では、フレーゲのSinnとBedeutungをそれぞれ「意義」と「指示対象」と訳します。これらは通常は、それぞれ「意義」と「意味」と訳されています。しかし、これでは違いが曖昧である。英訳ではSinnはsenseとかmeaningと訳され、Bedeutungはreferenceとかreferentとかdenotationと訳されます。私はこれに倣って『問答の言語哲学』では、Sinnを「意味」、Bedeutungを「指示対象」と訳しました。ここでもSinn「意味」と訳したいところですが、フレーゲ論文の邦訳を引用したいので、ここではSinnを「意義」と訳します。また邦訳では、Bedeutugnが「意味」と訳されいるのですが、それだと私がこれまで「意味」と呼んできたものとの区別できなくなるので、ここでは「指示対象」と訳することにし、引用する訳文には「意味(Bedeutung指示対象)」と付記することにします。)

前回、論文「思想」(1918)をもとに述べたように、文のSinn(意義)が思想であるとしましょう。では、文にはBedeutung(指示対象)はあるのでしょうか。これについて、フレーゲは論文「意味と意義について」(1892)で述べています。

フレーゲは、文に含まれる固有名を、Sinn(意義)は異なるが、同じBedeutung(指示対象)を持つものに交換したとき、文のSinn(意義)=思想は変化するが、文のBedeutung(指示対象)は変化しないだろうと考えます。そこから彼は、文のBedeutung(指示対象)は、文の真理値であると言います(参照、『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年、80)。

彼は、真理値については、次のように説明します。

「文の真理値とは、その文が真であったり、偽であったりするという事情(Umstand)である。…一方を真(das Wahre)、他方を偽(das Falsche)と名付ける。」80

この場合、

「すべての真なる文は同一の意味(Bedeutung指示対象)を持ち、他方ではすべての偽なる文も同一の意味(Bedeutung指示対象)を持つことになる。」82

「このことから、文の意味においてはすべての個別的なものが消えることがわかる。したがって、我々にとっては、文の意味だけが問題になるのではなく、また、単なる思想のみで認識が与えられるのでもない。思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を当たられるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」はどちらも真であり、これらの意味(Bedeutung指示対象)は同一です。そうすると、これだけでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。この二つの文は意義(思想)において異なります。しかし、彼は、思想を理解するだけで、認識が得られるのではないといいます。

  「このリンゴはバラ科である」

  「このリンゴはバラ科でない」

  「このリンゴは、机である」

  「このリンゴは、机でない」

確かに、これらの文の意義(思想)を理解しても、それだけでは何の認識にもなりません。従って、「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」の思想を理解するためでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。

そこでフレーゲは、

「思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を与えるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

と言います。文の意義(思想)と、意味(Bedeutung、指示対象)すなわち真理値が一緒になって初めて、認識価値の違いを説明出来るというのです。これは、文の思想と真理値が一緒になるとは、判断するということです。前回も引用しましたが、フレーゲは、論文「思想」で次のように述べていました。

  1 思想を把握すること――考えること

  2 思想の真理性の承認――判断すること

  3 この判断の表明-―――主張すること (209)

つまり、思想の真理性を承認することが、判断することです。ここ(「意味と意義について」)では、判断することについて、次のように大変興味深いことを述べています。

「さらに、判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することであるとすら言い得る。この区別は、思想に立ち戻ることによってなされる。ゆえに一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」82

ところで、構文論的には、語は文の部分です。フレーゲは、これに対応する仕方で、意味論的には、語の指示対象は、文の指示対象の部分であると考えて、次のように述べます。

「ここで私はしかし「部分」という語をかなり特別な意味で使っている。すなわち、私は、語そのものがこの文の部分をなす場合について、語の意味を、文の意味の部分と呼ぶことによって、文の全体と部分の関係を、文の意味にまで移したのである。」82

(フレーゲは、ここでは明示していませんが、おそらく意義についても同様に、語の意義は、文の意義の部分であると考えるでしょう。)

ところで、もし語のBedeutung(指示対象)が、対象であるとすると、文のBedeutugn(指示対象)は、それを部分として含む対象です。そのような対象「真なるもの」は、真なる文に登場するすべての固有名の指示対象を部分として含むことになります。それは物や事実の総体だと言えるかもしれません。

 次回は、フレーゲの「真なるもの」についてのこの解釈の吟味を進めます。(もしこの解釈が正しいならば、フレーゲの議論と「認識の三角形」が整合的である可能性があるでしょう。)