62 フレーゲの「思想」概念と疑問文(20220216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

フレーゲは、論文「思想」において、文の「意義」(Sinn、意味)を、「表象」ではなく「思想」であると説明します。そこでのフレーゲの「思想」概念を説明し、それと疑問文との関係を考察したいと思います。

(論文「思想」の日本語訳には、『フレーゲ哲学論集』藤村龍雄訳、岩波書店、1988と『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年があります。ここでは、後者の訳文とページ数を使用します。)

フレーゲは、「文の意義こそ、そもそも真であることが問題になりうる当のものである」206と考えます。そしてそれは表象ではないと言います。なぜなら、表象は、「ひとがもつもの」215であり、そのひとの「意識内容に属する」ものであり、「担い手を必要とする」216ものであり、それゆえに、ひとは表象を他者と共有できないからです。「どの表象も唯一人の担い手をもつ。二人の人間が同じ表象をもつということはない」217のです。この場合には、例えばピタゴラスの定理の把握が、表象ならば、複数の人は同じピタゴラスの定理を共有できないことになり、人々に共有される学問が不可能になります。

 これに対して思想は「いかなる担い手も要しない」219。「ちょうどある惑星がそれを誰かが見つける以前に既に他の惑星との相互関係にあるのと同様に、思想はそれが発見されてはじめて真となるのではない。」219。ひとは思想を把握しますが、しかし、思想は誰もそれを把握しなくても成立していると考えます。

 ところで、主張文と疑問文の意義は、このような思想ですが、命令文、希願文、依頼文の意義は思想ではありません。何故なら、それらの意義は「真理が問題となりうるような種類のものではない」208からです。

 では、疑問文はどうでしょうか。フレーゲは、疑問文を「語疑問[疑問詞で始まる疑問文]」208と「文疑問[はい、またはいいえを求める疑問文]」208に分けます。(『問答の言語哲学』で私は、「語疑問」を「補足疑問」、「文疑問」を「決定疑問」と呼んでいます。)

 彼は、文疑問は思想を含む、と考えます。その理由は次の通りです。

「「はい」という回答は、主張文と同じことを語っている。というのは、疑問文中にすでに完全に含まれていた思想が、その回答により真と評価されるからである。だから、どの主張文に対しても一つの文疑問を形成しうる」208。

(ここでのフレーゲの説明には、全ての決定疑問への「然り」の答えが断定文になると考える誤り(記述主義的誤謬)が含まれています。なぜなら、「これを持っていきましょうか」「これが欲しいですか」などの決定疑問への「はい」の答えは、「命令文」や「願望文」になるからです。決定疑問の答えは、主張文であるとは限りません。これについては、『問答の言語哲学』で強調しました。)

フレーゲは、同じ思想を含む疑問文と断定文の違いを次のように説明します。

「疑問文と主張文は同じ思想を含む。しかし、主張文はなおそれ以上のあるもの、すなわち、まさに主張、を含む。疑問文もまたそれ以上のあるもの、則ち[応答への]要求を含む。したがって、主張文においては、二つのことが区別されるべきである。すなわち、対応する文疑問と主張文が共有する内容と、主張とである。前者は思想である、ないし、少なくとも思想を含んでいる。」209

「かくして我々はつぎのような区別をする。

  1 思想を把握すること――考えること

  2 思想の真理性の承認――判断すること

  3 この判断の表明-―――主張すること」209

フレーゲは「語疑問」が思想を含むかどうかについて、次のように述べています。

「語疑問[疑問詞で始まる疑問文]においては、我々は不完全な文を発話しているのであり、我々の求めている補足[疑問詞「誰」「何」への回答]によって初めて一つの本当の意義を得ることにある。従って語疑問は個々では考慮の外におかれる。」208

フレーゲは、語疑問(補足疑問)は、疑問詞に何かの表現が代入されたときにはじめて思想を持つので、語疑問は、思想を含まない、と述べているのだと思います。しかしそうでしょうか。確かに、補足疑問の意義は、通常の意味では思想(「真理が問題となるもの」)を含みません。しかし、思想の半製品を含むのではないでしょうか。

 例えば、「これは何ですか」という問いは、「これは○○です」という形式の答えを予想します。「○○」に適切な語が入れば、適切な答えとなり、それは完全な思想となります。つまり「真理が問題となるもの」になります。勿論、補足疑問文のままでは、完全な思想を含みません。

 しかし、補足疑問の意義を表象と考えることは出来ないのです。もし補足疑問の意義が、それを問うた人の表象であるとすると、問われた人がそれを理解することができないことになるからです。なぜなら、問われた人が理解する補足疑問は、問われた人の表象であり、問うた人が表象した補足疑問とは異なることになるからです。フレーゲが言うように、科学が可能であるためには、科学的主張の共有が必要です。そのためには科学的な問いの共有もまた必要なのではないでしょうか。したがって、補足疑問の意義の共有が必要です。

それゆえに、補足疑問の意義は、表象だとは見なせません。それは完全な思想ではないとしても、思想の半製品として共有される必要があるのです。

 補足疑問が思想(ないし思想の半製品)を含むというこの指摘が、フレーゲ思想にどのような変更を要求するのかを検討するためにも、次回は、フレーゲが、主張文のBedeutung(指示対象)についてどう考えるのかを考察したいと思います。