[カテゴリー:問答の観点からの認識]
前回述べましたが、フレーゲによれば、異なる真なる判断は、真なるものの諸部分を異なる仕方で分解するのだと思われます。この解釈は、次の引用に基づいています。
「判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することである」(『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年82、下線引用者)
「一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」(同書、82、下線引用者)
例えば「このリンゴは、パラ科である」という真なる判断が、真なるものの諸部分を区別するとは、「このリンゴ」の指示対象を他の部分から、あるいは真なるもの全体から区別することだと言えそうです。
ところで、次のふたつの文が真であるとしましょう。
「このリンゴは、パラ科である」
「このリンゴは、赤い」
このとき、この二つの文がそれぞれ「固有の分解方法」を持つのだとすると、分解方法の違いは、述語の違いによることになります。フレーゲは、述語の意義と指示対象について、論文「意義と意味詳論」(1892-95)で次のように説明しています。
述語は、概念語であるとされます。固有名の指示対象が、対象であるのに対して、概念語の指示対象は概念であると言われます(同書、103)。
フレーゲは、概念のBedeutung(指示対象)と概念の外延を区別します。例えば、「これはリンゴである」における「リンゴ」は固有名ではなく、概念語(述語)です。「リンゴはバラ科である」は、正確に言えば、「あるものがリンゴであるならば、それはバラ科である」となります。概念語「リンゴ」の指示対象は、概念であって、その外延とは、区別されます。概念「リンゴ」の外延は<リンゴであるものの集合>です。
フレーゲによれば、「概念は、その値が常に真理値であるような、単項関数なのである。」(104)。例えば概念「リンゴ」は、「( )はリンゴである」という一つの空所を持つ関数なのです。その空所に対象を入力することによって、真理値を出力する関数なのです。
このような概念については、次のことが成り立ちます。
「同一対象の固有名が、真理を損なうことなく互いに代替となりうるのと同様、概念の外延が同じならば、同じことが概念語にも当てはまる。」(104)
「二つの概念語の意味するものが同じであるのは、当の概念に付属する外延が合致するときそのときに限る」(109)
ここで次に3つの文を真であるとしましょう。
①「このリンゴは、赤い」
②「このイチゴは、赤い」
③「このリンゴはバラ科である」
このときこれらの文のBedeutung(指示対象)は同じ真理値「真なるもの」となります。
しかし、意義(思想)は異なりますので、真なるものの「固有の分解方法」は異なるはずです。では、それらはどのように異なるのでしょうしょうか。
①と②は、異なる対象を取り出している。
①と③は、異なる概念を取り出している。
②と③は、異なる対象と異なる概念を取り出している。
フレーゲをこのように解釈してもよいでしょうか。「取り出している」というのは、私のなりの表現ですが、これをどう理解したものでしょうか。次にこれらを考えます。