14「思慮」は理性の「公的使用」か (20220712)

[カテゴリー:平和のために]

「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、国家連合体のなかに設置される国際司法裁判所で、争いを解決するということが考えられます。ここでの裁判官は、

次のようなものに基づいて、争いを解決しようとします。

国際条約で係争国が明らかに認めた規則

・法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習

・文明国が認めた法の一般原則

・法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説

裁判官がこれらの規則に従うとしても、もしこれらが理性の公的使用の結果であるならば、これらに従う理性使用も公的使用だといえます。では、これらは、公的使用の結果でしょうか。

・まず、国際条約が理性の公的使用の結果であるとは限りません。当事国が理性の私的使用によって、互いに合意すれば、国際条約は成立するからです。しかし、係争国がどの国際条約を締結しているかは、国際司法裁判所の裁判官にとって、事実の問題であって、自分が従うべき規範ではありません。

・次に、「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」についても、これらが認められているということを、裁判官が前提すべき、事実に属すると考えることができます。

・残りの「文明国が認めた法の一般原則」も「法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説」も、それらが認められていることを、裁判官が前提すべき、事実であると考えることができます。

では、国際司法裁判所の裁判官が、従うべき規範とは何でしょうか。それは裁判を行うための規範であり、なかでも最も重要なものは、「ある期限の内に結論を出さなければならない」ということではないでしょうか。

「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」は、上記の「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」に含まれているかもしれません。もしそうならば、上記「国際慣習」の中の一部「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」だけは、裁判官にとって、単なる事実(規範が存在するという事実)ではなく、従うべき規範であることになります。

では、この「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」は、アプリオリな命題でしょうか、アポステリオリな命題でしょうか。公正な裁判のやり方については、(別途、具体的に考える必要がありますが)、理性の公的使用によって合意が可能だろうと思われます。もしそうだとすると、裁判官が、当事国がどのような条約や規則を受け入れているか、を前提した上で、理性の公的使用によって、裁判を進めることができます。

ただし、「ある期限の内に結論を出さなければならない」という規則を公的使用によって認めることができるとしても、最終的にどのような結論を出すべきかを、公的使用によって決定できるとは限りません。そこにはアリストテレスのいう「思慮」(phronesis, prudence, Klugheit)のようなものが必要かもしれません。では、この「思慮」もまた「理性の公的使用」だと言えるでしょうか(カントはどう考えるのでしょうか、今のところ分かりません)。少なくとも「思慮」は「理性の私的使用」ではないとおもいます。しかし「思慮」の場合には、二人の人の思慮の結果が一致するとは限りません。つまり「思慮」では合意できない可能性が残ります。そうすると、この裁判官の出す判決の正当性が問題になります。

この点をさらに考えたいと思いますが、その前に、もう一つの問題を考えておきたいと思います。それは、利害当事国が裁判にかけることに同意していなければならない、という「同意原則」です。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。