62 相互覚知と予測誤差最小化メカニズム  (20230118)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回述べたように、個人の発達における初語は、食べ物を指す言葉、あるいは近くの重要な他者を指す言葉(名前)であることが高いようです。したがって、人類史における言語の誕生における初語は、食べ物を指す言葉、あるいは近くの重要な他者を指す言葉(名前)である可能性が高いと推測します。重要な他者の注意をひくためにその人を指す言葉を用い、その人の注意を食べ物に向けるためにそれを指す言葉を発するのだろう、と推測します。

個人の発達において、共同注意の成立は言語の習得に先行するようですが、人類史における共同注意の成立もまた言語の成立に先行するだろうと、推測します。

では「共同注意」とは何でしょうか。これについて、次のように考えます。共同注意とは、二人(あるいはそれ以上)の人間が同一の対象に同時に注意を向けることですが、二人がたまたま同一の対象にたまたま同時に注意を向けているだけでは、共同注意が成立しているとは言いません。たとえ偶然に二人が同一対象に同時に注意を向けているのだとしても、二人がそのことに共に気づいていれば、成立しているといえるでしょう。他方で、AとBが対象Oに共同で注意していることが成立するためには、二人がともに、同一対象に同時に注意を向けることを<意図して>注意を向けたのである必要はありません(以前に言及したように、明確な意図が成立するのは共同注意が成立した後です)。したがって、<AとBが対象Oに共同で注意していることは、二人が、偶然であれ意図的であれ、同一対象に同時に注意を向けており、そのことに共に気づいているということです。>

もし「共同注意」をこのようなものと見なすならば、その眼目は「共に気づいている」ということにあります。「共に気づいている」ということの最も基本的な形態は、おそらく二人の人間が互いに見合っていることに気づいていることです。ベイトソンはこれを「相互覚知」(mutual awareness) と呼んいます。

「二者システムでは新たな統合が起こるのだ。集団が決定因となるには、参加者が相手の知覚に気づいていることが必要である。相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえているとき、この相互覚知は、参加者二人のすべての行為と相互行為の決定因となるのである。このような覚知が樹立すると同時に、こちらと相手で決定因集団を構成し、この大きな実在における集団プロセスの特色が二人を統制するのである。ここでも共有された文化的前提がモノをいう。」(グレゴリー・ベイトソン&ジャーゲン・ロイシュ『コミュニケーション』佐藤悦子、ロバート・ホスバーグ訳、思索社、1989(原書1951)、224)

(ベイトソンは「進化のこの段階は、ホ乳動物、霊長類と家畜にしかみられないものだろう」と述べていますが、その詳しい説明はありません。)

ところで、前に(第59回)に「共同注意」と「共有知」は予測誤差最小化メカニズムによって構成されると述べましたが、「相互覚知」も同じように説明できると思います。

<私は、自分と他者が互いに見合っているという仮定をし、そこから帰結することを予測する。その予測が、現実の現象とずれていれば、その誤差が縮小するように仮定を修正する、というプロセスを繰り返すことによって、相互覚知を実現しようとする>。

このメカニズムは、(まだ意識も意図も明確には成立していない段階なので)意識的意図的なプロセスではありません。ここでは、予測誤差最小化プロセスは、問いに答える意識的意図的なプロセスであり、予測誤差最小化メカニズムは、探索する無意識的非意図的なメカニズムであると区別しておきます。ここでの予測誤差最小化メカニズムでの「仮定」とは、(あえて言語化すれば)「共に気づいているのだろう」というものですが、このメカニズムはその仮定を確認しようとするプロセスであり、その意味では(あえて言語化すれば)「共に気づいているのだろうか?」という探索です。

前にも述べたように、言語は問答として発生すると考えますが、意識はおそらく探索に対する発見の一種として成立するだろうと考えます。「一種」というのは、原始的な生物もまた探索発見をするからです。意識を発生させる探索発見は、おそらく探索と発見が分離しているような探索発見です。探索と発見の分離は、おそらく同時に、行動と認知の分離でもあるだろうと推測します。

(この推測の正しさを確かめるには、この推測を仮定して、「予測誤差最小化プロセス」にかけるしかないだろうと思います。先走って言えば、科学研究もまた、この「予測誤差最小化プロセス」の一種だと推測します。)

 次回は、相互覚知の諸段階について考えたいと思います。