102 記憶の問題 (Memory problems)(20240117)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「あれが富士山です」という命名宣言が成立するには、「あれ」による指示が成立しなければなりませんが、それを確認するためには「「あれ」というのはどれですか」という問いに「あれです」と答えるという問答が必要です。この問答が自問自答であれば、この問答が正しいか、正しいと信じているだけか、区別できません。指示できるためには、指示を確認できなければなりません。そして指示を確認するには、(自問自答では、規則に従うことができないので)最終的には、他者との問答が必要です。したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要です。

 こうして命名宣言が成立した後で、「あれが富士山です」と事実についての主張が行われたとき、それが真であるためには、命名のときに「あれ」で指示した対象を、主張において「あれ」で指示していることが必要です。そのためには、命名の時に「あれ」で指示した対象を記憶している必要があります。この記憶が正しいのか、正しいと信じているだけなのか、を区別するには、他者との問答が必要です。(これは、記憶によって人格の自己同一性を正当化しようとするときにも、他者との問答が必要であることを意味しています。)

したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要ですが、命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、他者との問答が必要です。

そこで、次に「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思います。

101 指示性の固定性と指示の不可測性は両立可能である(Rigidity of reference and inscrutability of reference are compatible) (20240113)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#富士山の命名は、次の発話によって行われます。

  「あれが富士山です」

この命名宣言には、真理値はありません。しかし、この宣言の後で、「あれが富士山です」と語るとき、(命名宣言の反復である場合もあるでしょうが)真理値を持つ事実の記述となることが可能です。この記述が真であるためには、記述の「あれが富士山です」の「あれ」が、命名の「あれが富士山です」の「あれ」と同一の対象を指示していなければなりません。逆にいえば、もし「あれが富士山です」が真であるならば、その「あれ」は命名宣言の中の「あれ」と同一対象を指示しています。

記述「あれが富士山です」が真である ≡ 記述「あれが富士山です」の「あれ」の指示対象と命名「あれが富士山です」の「あれ」の指示対象が同一である

命名宣言の中の「あれ」が何を指示しているのかが、クワインが言うように不可測(inscrutable)であるとしましょう。仮に命名宣言の中の「あれ」の指示対象が不可測であり、複数の可能性をもつとしても、指示されている可能性を持つそれぞれの対象について、真なる記述「あれが富士山です」の中の「あれ」が、命名宣言の中の「あれ」と同一の対象を指示していると想定することは可能です。

 もし「富士山」を命名した者が「あれ」で指示していたものと、それを学習した者が「あれ」で指示しているものが、ズレているならば、「あれが富士山です」という記述の真理値に関して、命名者と学習者に不一致が生じるでしょう。不一致が生じる限り、そのことは、学習者の学習がまだ完了していないことを意味します。学習が完了したならば、それは一致するはずです。もちろん、学習が完了したと思っていたのに、ある時、その用法について不一致が生じることはありえます。

次に一般名の定義を考えましょう。s「あれはブナです」と定義したとします。この「あれ」が指差しの方向にある木を指示しているのだとしても、どのような木であるのか、不可測であるとしましょう。

しかし、「あれはブナである」が真なる記述であるならば、その「あれ」は、定義の中の「あれ」と同種の対象を指示していることになります。「あれはブナである」が真なる記述であれば、その「あれ」は常に定義の中の「あれ」と同種の木を指示しているのです。これは自然種名「ブナ」の固定指示性です。

#命名の固定指示と指示の不可測性は、両立可能です

仮定1(命名の固定指示):「この子をソクラテスと命名する」という命名発話によって、この固有名「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示することになると仮定してみます。

仮定2(指示の不可測性):この命名発話「この子をソクラテスと命名する」の「この子」による指示は不可測的であり、その指示対象については複数の可能性が残ると仮定してみます。

この二つの仮定は両立可能でしょうか。「この子」の指示対象について複数の可能性があるならば、「ソクラテス」の指示対象も複数の可能性をもちます。「ソクラテス」は、すべての可能世界で、同一の対象を指示しますが、しかしその同一の対象は複数の可能性を持ちます。このように考えるとき、この二つは両立可能です。

#自然種名の固定指示と指示の不可測性は、両立可能です

仮定1(自然種名の固定指示):「これは、リンゴである」という定義の宣言発話によって、この固有名「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示することになると仮定してみます。

仮定2(指示の不可測性):この命名発話「この子をソクラテスと命名する」の「この子」による指示は不可測的であり、その指示対象については複数の可能性が残ると仮定してみます。

この二つは、両立可能ですs。指示の不可測性は、指示の解釈につねに複数の可能性が残るということですが。その複数の可能な対象の各々について、定義がそれを固定指示していると考えることができるからです。

(以上の説明での「固定指示」や「指示の固定性」は、固有名や一般名の使用の状況や文脈が異なっても、同一の対象を指示するという一般的な理解であり、可能世界の貫世界的同一性を認めるかどうかなどの、固定指示についての論争に踏み込んだものではありません。これについては、勉強してから別途論じたいと思います。)

次に、記憶の問題を考えたいとおもいます。

以前に、問いの答えが真であることは、次のことに基づくと述べました。

  • 言葉の学習に基づく
  • 語や文の定義に基づく。
  • 1,2からの推論に基づく
  • 1,2の記憶に基づく
  • 1,2,3,4,5についての他者の承認に基づく

ここまで論じてきたのは、1と2についてです。

次に記憶の問題を考えたい思います。

100 指示するとはどういうことか(What does it mean to refer?) (20240102)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。)

問いに対する答えが真であるとはどういうことか、を考えており、最も基礎的な真理としては、語「リンゴ」を学習したときの「これはリンゴである」を真なる命題として学習するので、とりあえず個人にとってはこれは問いに対する答えが真である、もっともの基礎的な例になるだろうと考えました。ただし、語の学習は教える人の知識に依存しており、それを遡れば、最初に「リンゴ」という語を作ったときに遡ると考えました。命名や定義によって語を語を導入するとき、そこ使用される「これはリンゴである」のような命名や定義の宣言発話は、真理値を持ちませんが、それに依拠して「これはリンゴである」とか「これはリンゴではない」とかいう発話は真理値を持ち、問いに対する答えが真であるのは、命名や定義に依拠することによって成立することになります。そして、前回述べたように、命名や定義をするためには、対象ないし対象の集合を指示しなければなりません。そこで、指示するとはどういうことか、を考えたいとおもいます。

#指示は、命名や定義を前提する。

 まず、命名と定義の時に限らず指示一般について考えてみます。指示するとは、対象を指示することです。指示対象には、具体的な個物、抽象的普遍、具体的性質、普遍的性質、具体的関係、普遍的関係、具体的出来事、普遍的出来事、言語的トークン、言語的タイプなどがあり、これらは、名詞ないし名詞句で指示できます。

 名詞ないし名詞句を用いて対象を指示するのだとすれば、指示に先立って、名詞ないし名詞句の学習が必要です。学習が可能であるためには、教える人が学習を終えていることが必要です。そしてこれを遡れば、名詞ないし名詞句の命名ないし定義に行き着きます。つまり、一般的には、指示は、名詞ないし名詞句の命名や定義を前提とします。

#指示と命名・定義は循環するのか?

 このように考えるとき、指示の説明と、命名や定義の説明は、循環してしまうのでしょうか。前回見たように、命名や定義は、逆に指示を前提とします。すると、説明が循環しそうです。しかし、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用している場合には、これらの他の名詞や名詞句の命名や定義を説明するときに、当初の名詞や名詞句を使用しないようにするならば、循環は避けられると思います。このようにして循環を避けながら遡っていくならば、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用せずに行われるケースに行き着くでしょう。この場合の指示は、指さし行為+指示詞の発話に遡るかもしれませんが、これはさらに、指さし行為と相手の注意を喚起するための発声(「アー」や「オー」など)を結合したものへと遡ることができるでしょう。(この発声は、次の2や3に発展します。)

#命名や定義の発生順序

命名や定義の発生の順序は、おそらく次のようになるだろうと推測します。

1,自分が注目している対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為と発声をすること

2,ある特定の対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為とある特定の発声をすること(日本語の場合、「これ」「あれ」「それ」など、これは様々な対象の指示に使用できる)。

3,ある対象と特定の発声を結合すること(「ミルク」「おもちゃ」「ママ」など)。

現在のところ、このような段階を経て固有名の命名や一般名の定義が行われるようになるだろうと推測しています。

#語が作られる理由

このようにして生じると推測する語の発生ですが、言語の習熟が進んだ後では、自問自答によって語が作られる場合もあるでしょうが、原初的には、他者とのコミュニケーションのために語が作られるのだと思います。他者とのコミュニケーションのために語を作る理由としては、例えば次のようなことが考えられます。

(1)語があれば、対象が不在であってもその対象への共同注意が可能になります。

例えば、「リンゴをとってほしい」ということを伝えようとするとき、「リンゴ」といって手を伸ばせば、リンゴがそこになくても、リンゴをとってほしいということを伝えることができます。「何が欲しいのか」という問いに答えようとするとき、リンゴがそこにないときには、語「リンゴ」がないと伝えられません。

(2)そもそも指差し行為ができない対象への共同注意を求めるには、その対象を語句で指示することが役に立ちます。例えば、「おしっこ」「痛い」など。

これらのケースでは、語を作るのは、共同注意を生じさせるためであり、共同注意が必要になるのは、協働作業のためであろうと推測できます。

#命名と定義は固定指示です。

クリプキによれば、「この子をソクラテスと命名する」という命名宣言が承認されたなら、この「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示します。「水はH2Oである」という定義宣言が承認されたなら、「水」はすべての可能世界で同一種を指示します。

 「水」の定義「水はH2Oである」は、H2Oの集合と名前「水」を結合しています。この定義によって、「水はH2Oである」はアポステリオリで必然的に真です、言い換えると認識的に偶然的であり、形而上学的に必然的です。この定義によって、「水」は固定指示となります。ゆえに、定義の前でもこれは真となります。

#固有名の命名の規約に依拠する真なる答え

「この子はソクラテスである」によって、固有名を作ったとしましょう。固有名は固定指示です、つまりあらゆる可能世界で、「ソクラテス」は同一の人物を指示する。クリプキは、これを規約だという。この規約は次のようなものになるだろう。

<「この子」という名詞句は、この世界ではある一人の人物を指示する。そして、その人物が他の可能世界にいるかどうかわからないが、もしいたとすると、その人物を指示する。>と規約する。

この命名の規約に基づいて、ある人物を指して「この人は誰ですか」という問いに、「この人はソクラテスである」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「この人」の指示対象が誰であるか」の答え

 (2)「ソクラテス」の命名宣言文「この子はソクラテスである」

 (3)「この人」の指示対象と命名宣言の「この子」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「この人は誰ですか」という問いに対する答え「この人はソクラテスである」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

#自然種名の定義の規約に依拠する真なる答え

自然種名を作ることは、命名とも呼べるが、定義とも呼べる。命名という場合には、「これは、リンゴである」と命名する前に、すでに対象<リンゴ>は同定されている。定義という場合には、対象<リンゴ>が事前に同定されている場合と、語「リンゴ」の定義によって、対象<リンゴ>の同定(定義)が可能になる場合がある。どちらの定義の場合にも、定義による対象の表示は、固定指示であるが、より原初的なのは、定義のこの後者の場合であろう。そして、この固定性もまた規約である。

この定義の規約に基づいて、ある対象を指して「これは何ですか」という問いに、「これはリンゴです」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「これ」の指示対象がどれであるか」の答え

 (2)「リンゴ」の定義宣言文「これはリンゴである」

 (3)「これは何ですか」の「これ」の指示対象と定義宣言文の「これ」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「これは何ですか」という問いに対する答え「これは、リンゴです」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

理論的な問いに対する答えである(単純な知覚報告を含む)事実の記述は、推論によって成立しますが、その前提ととして、命名や定義だけでなく、知覚、記憶、概念関係もまた前提として必要としています。つぎにこれについて考えたいのですが、その前に、クワインの指摘した「指示の不可測性」と固定指示の関係についての考えたいと思います。