[カテゴリー:問答の観点からの認識]
(明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。)
問いに対する答えが真であるとはどういうことか、を考えており、最も基礎的な真理としては、語「リンゴ」を学習したときの「これはリンゴである」を真なる命題として学習するので、とりあえず個人にとってはこれは問いに対する答えが真である、もっともの基礎的な例になるだろうと考えました。ただし、語の学習は教える人の知識に依存しており、それを遡れば、最初に「リンゴ」という語を作ったときに遡ると考えました。命名や定義によって語を語を導入するとき、そこ使用される「これはリンゴである」のような命名や定義の宣言発話は、真理値を持ちませんが、それに依拠して「これはリンゴである」とか「これはリンゴではない」とかいう発話は真理値を持ち、問いに対する答えが真であるのは、命名や定義に依拠することによって成立することになります。そして、前回述べたように、命名や定義をするためには、対象ないし対象の集合を指示しなければなりません。そこで、指示するとはどういうことか、を考えたいとおもいます。
#指示は、命名や定義を前提する。
まず、命名と定義の時に限らず指示一般について考えてみます。指示するとは、対象を指示することです。指示対象には、具体的な個物、抽象的普遍、具体的性質、普遍的性質、具体的関係、普遍的関係、具体的出来事、普遍的出来事、言語的トークン、言語的タイプなどがあり、これらは、名詞ないし名詞句で指示できます。
名詞ないし名詞句を用いて対象を指示するのだとすれば、指示に先立って、名詞ないし名詞句の学習が必要です。学習が可能であるためには、教える人が学習を終えていることが必要です。そしてこれを遡れば、名詞ないし名詞句の命名ないし定義に行き着きます。つまり、一般的には、指示は、名詞ないし名詞句の命名や定義を前提とします。
#指示と命名・定義は循環するのか?
このように考えるとき、指示の説明と、命名や定義の説明は、循環してしまうのでしょうか。前回見たように、命名や定義は、逆に指示を前提とします。すると、説明が循環しそうです。しかし、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用している場合には、これらの他の名詞や名詞句の命名や定義を説明するときに、当初の名詞や名詞句を使用しないようにするならば、循環は避けられると思います。このようにして循環を避けながら遡っていくならば、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用せずに行われるケースに行き着くでしょう。この場合の指示は、指さし行為+指示詞の発話に遡るかもしれませんが、これはさらに、指さし行為と相手の注意を喚起するための発声(「アー」や「オー」など)を結合したものへと遡ることができるでしょう。(この発声は、次の2や3に発展します。)
#命名や定義の発生順序
命名や定義の発生の順序は、おそらく次のようになるだろうと推測します。
1,自分が注目している対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為と発声をすること
2,ある特定の対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為とある特定の発声をすること(日本語の場合、「これ」「あれ」「それ」など、これは様々な対象の指示に使用できる)。
3,ある対象と特定の発声を結合すること(「ミルク」「おもちゃ」「ママ」など)。
現在のところ、このような段階を経て固有名の命名や一般名の定義が行われるようになるだろうと推測しています。
#語が作られる理由
このようにして生じると推測する語の発生ですが、言語の習熟が進んだ後では、自問自答によって語が作られる場合もあるでしょうが、原初的には、他者とのコミュニケーションのために語が作られるのだと思います。他者とのコミュニケーションのために語を作る理由としては、例えば次のようなことが考えられます。
(1)語があれば、対象が不在であってもその対象への共同注意が可能になります。
例えば、「リンゴをとってほしい」ということを伝えようとするとき、「リンゴ」といって手を伸ばせば、リンゴがそこになくても、リンゴをとってほしいということを伝えることができます。「何が欲しいのか」という問いに答えようとするとき、リンゴがそこにないときには、語「リンゴ」がないと伝えられません。
(2)そもそも指差し行為ができない対象への共同注意を求めるには、その対象を語句で指示することが役に立ちます。例えば、「おしっこ」「痛い」など。
これらのケースでは、語を作るのは、共同注意を生じさせるためであり、共同注意が必要になるのは、協働作業のためであろうと推測できます。
#命名と定義は固定指示です。
クリプキによれば、「この子をソクラテスと命名する」という命名宣言が承認されたなら、この「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示します。「水はH2Oである」という定義宣言が承認されたなら、「水」はすべての可能世界で同一種を指示します。
「水」の定義「水はH2Oである」は、H2Oの集合と名前「水」を結合しています。この定義によって、「水はH2Oである」はアポステリオリで必然的に真です、言い換えると認識的に偶然的であり、形而上学的に必然的です。この定義によって、「水」は固定指示となります。ゆえに、定義の前でもこれは真となります。
#固有名の命名の規約に依拠する真なる答え
「この子はソクラテスである」によって、固有名を作ったとしましょう。固有名は固定指示です、つまりあらゆる可能世界で、「ソクラテス」は同一の人物を指示する。クリプキは、これを規約だという。この規約は次のようなものになるだろう。
<「この子」という名詞句は、この世界ではある一人の人物を指示する。そして、その人物が他の可能世界にいるかどうかわからないが、もしいたとすると、その人物を指示する。>と規約する。
この命名の規約に基づいて、ある人物を指して「この人は誰ですか」という問いに、「この人はソクラテスである」と答えるべきであることになる。この答えは、
(1)「「この人」の指示対象が誰であるか」の答え
(2)「ソクラテス」の命名宣言文「この子はソクラテスである」
(3)「この人」の指示対象と命名宣言の「この子」の指示対象が同一であること
この3つを前提として、そこから結論として推論される。「この人は誰ですか」という問いに対する答え「この人はソクラテスである」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。
#自然種名の定義の規約に依拠する真なる答え
自然種名を作ることは、命名とも呼べるが、定義とも呼べる。命名という場合には、「これは、リンゴである」と命名する前に、すでに対象<リンゴ>は同定されている。定義という場合には、対象<リンゴ>が事前に同定されている場合と、語「リンゴ」の定義によって、対象<リンゴ>の同定(定義)が可能になる場合がある。どちらの定義の場合にも、定義による対象の表示は、固定指示であるが、より原初的なのは、定義のこの後者の場合であろう。そして、この固定性もまた規約である。
この定義の規約に基づいて、ある対象を指して「これは何ですか」という問いに、「これはリンゴです」と答えるべきであることになる。この答えは、
(1)「「これ」の指示対象がどれであるか」の答え
(2)「リンゴ」の定義宣言文「これはリンゴである」
(3)「これは何ですか」の「これ」の指示対象と定義宣言文の「これ」の指示対象が同一であること
この3つを前提として、そこから結論として推論される。「これは何ですか」という問いに対する答え「これは、リンゴです」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。
理論的な問いに対する答えである(単純な知覚報告を含む)事実の記述は、推論によって成立しますが、その前提ととして、命名や定義だけでなく、知覚、記憶、概念関係もまた前提として必要としています。つぎにこれについて考えたいのですが、その前に、クワインの指摘した「指示の不可測性」と固定指示の関係についての考えたいと思います。